OBJECTIVE.
2022年3月11日
立教大学総長 西原廉太
今からちょうど11年前の2011年3月11日の14時46分。誰しもが決して忘れることのできないこの時に、みなさんは、どこで、何をしていらしたでしょうか。
私は立教大学池袋キャンパスにおりました。ちょうど立教学院理事会が午後3時から始まる直前でした。書類は倒れライトは大きく揺れ、テレビをつけると、大きな津波が人々を飲み込もうとしていました。都内の交通機関も麻痺し立教のキャンパスを開放しました。当時、吉岡知哉総長のもと、社会連携担当副総長を担っていた私は、帰宅困難となられた池袋駅周辺の5千人近い方々と、大学で夜を明かしました。これらの人々が不安ないように、夜を徹して食事や就寝用マットなどを配り歩き、ていねいに声がけを続けてくれた職員のみなさんの姿は、今も目に焼きついています。
翌朝には、すでに言語を絶する状況が明らかになりつつありました。旧約聖書の詩篇詩人の、苦難を前にして、舌が上あごに張りついて、神に祈ることすらできないという嘆きそのものの経験であったのです。
ある女性の証言が耳から離れません。大津波から逃げようと高台に向かっている時、後ろを振り返ると、数人の小学生たちが泣き叫びながら必死に走っていた。しかし、次に振り返った時には、もうその子たちの姿は消えていたといいます。ある男の子は、行方不明になった両親、兄妹の名前を段ボールに書いて避難所をまわっていました。この現実を前にして、私たちは茫然とするばかりでした。
そして、地震と津波に加えて、さらなる恐怖が襲うことになりました。福島第一原発の原子炉群の爆発、制御不能と高濃度放射能拡散です。当時、「人体に影響がないレベル」とさかんに喧伝されていましたが、私が工学部時代に学んだことは、それは急性障害が出るか否かだけで、人体にまったく影響がない放射能などないということでした。実は大震災の4年前に、福島原発は、チリ級津波が発生した際には冷却材喪失による過酷事故の可能性があると国会でも指摘されていたのです。そういう意味では、この原発事故は人災でもあったことを私たちは忘れてはなりません。
復興庁が今年の2月25日に公表した震災による避難生活者は約3万8000人です。しかし、福島県は2017年3月末をもって、避難指示区域外から全国に避難している「自主避難者」への住宅無償提供を打ち切り、このタイミングで避難先の各市町村が自主避難者の多くを「避難者」に計上しなくなりました。そのため、公的な数字としての避難者数は大きく減っているだけで、実際にはさらに多くの方々が避難せざるを得ない状況に置かれているのです。未だプレハブ型仮設住宅での生活を余儀なくされている被災者が数多くおられます。
2012年10月に、宮城県山元町にある私立ふじ幼稚園を、来日されていたカナダ聖公会のフレッド・ヒルツ大主教と共に訪問しました。この、ふじ幼稚園では、園児51人が幼稚園の送迎バスごと津波に巻き込まれ、その内、園児8人と職員さんお一人も亡くなられました。この命を落とされた職員さん、中曽順子さんが日本聖公会の信徒さんでもあったからです。
3月11日の地震直後、建物の中は危ないと、付き添いの職員とともに園児らは大小2台のバスに分乗。園庭に避難していたところを、津波が襲いました。園児33人が乗った大型バスは園内のブロック塀に引っ掛かって止まり、18人がいた小型バスは園から数百メートル離れた民家まで流されました。濁流にのまれた車内は、天井近くまで水位が上がったといいます。中曽さんら職員はドアを開け、バスの屋根に園児らを引き上げました。大型バスにいた職員のお一人は、「バスの中で、浮いている子を外に出すので精いっぱい。それでも、手で水中を探り、感触のあった2人をリュックや服をつかんで外に出した」と振り返っておられます。波が引いたのを見て、それぞれのバスから、園舎や民家の2階に逃れましたが、大型バスでは園児7人が不明となり、小型バスでは園児1人と、中曽順子さんが絶命されました。
私たちが、ふじ幼稚園を訪問した時には、すでに別の場所で新園舎がユニセフなどの援助で完成し、園児たちもそちらに移っていたために、旧園舎には子どもたちの姿はありませんでした。旧園舎の玄関に一杯に飾られた千羽鶴の前で、私たちは、当時の話を伺いました。8人の子どもたちが幼い命を落としたことを聞き、言葉が出ませんでした。中曽順子さんは、園児を抱きかかえながら、子どもたちを守りながら、けれども、次の日の朝まで生きることはできなかった。私は、そのお話しをカナダの大主教のために通訳しながら、通訳者としては完全に失格なのですが、言葉に詰まってしまい、涙が止まりませんでした。大主教もずっと泣いておられました。
園庭の片隅に、8人の小さな石のお地蔵さんがありました。それは、小さな命を奪われてしまった子どもたちを覚えて、置かれたものでありました。園長先生が毎日ここに来て、この8人のお地蔵たちにお祈りをされている、とのことでした。これは、あくまでも、2011年3月11日に起こった無数の悲しい物語の一つなのです。
震災後、立教大学は、2003年以来、生出(おいで)地区での林業体験活動などで立教生が大変お世話になっていた陸前高田市とのつながりで、復興支援活動を開始することを決定しました。私は、立教大学東日本大震災復興支援本部長として陸前高田市を訪問しましたが、震災と津波直後の、無数の人々の命も、町も生活も日常も、そして人々の涙さえもが押し流されてしまった陸前高田の状況を前にして、語るべき言葉を失い、茫然と立ち尽くしました。立教の多くの教職員も現地に入り、また、たくさんの立教の学生たちもボランティアとしてさまざまな活動に関わらせていただきました。この出会いと経験が、学生、教職員たちに計り知れない気づきを与えてくれたことは間違いありません。
陸前高田市の戸羽太市長は、多忙な中、ボランティア活動に参加した立教生たちが書いたレポートすべてに目を通していただき、立教の学生たちのために、手書きのお手紙をくださいました。そこにはこのように記されていました。
ボランティアに参加して頂いた皆様へ
立教大学2011年度夏季陸前高田支援ボランティアに参加して下さいました皆様に市民を代表し、心から感謝を申し上げます。立教大学と本市は長年にわたり御縁を頂いておりますが、今回東日本大震災で壊滅的な被害を受けた陸前高田市に沢山の学生諸君がボランティアに来て下さった事は、言葉にできない程嬉しく思っています。皆さんのレポートを読む時間がなく、今日まで御礼も言えずに歳月が経ってしまい申し訳ありません。レポートを全て読ませて頂き思った事は、人間て優しいな。まだまだ日本も捨てたものじゃないな。という事でした。
「絶望」という言葉があります。
わたし自身46年間生きてきて、生まれて初めて「絶望」というものを感じました。妻を亡くし、二人の子供をどうやって育てていくか。市長として陸前高田市を再生できるのか。普段は強気な性格であるわたしが、まさに身動きひとつとれない「絶望」の中にいました。
しかし、そんなわたしを絶望の淵から救ってくれたのは人々の優しさでした。失ったものは本当に沢山あり過ぎますが、一方で得たものも沢山ありました。人は一人では生きていけないなどと歌の歌詞だけの世界と思っていましたが、日本中から、世界中から頂いた励まし、優しさにより今日も何とか頑張れているのだと思っています。
皆さんがボランティアで経験された事、感じた事は皆さんの今後の人生に必ず生かして下さい。多くの犠牲の上に皆さんの経験があったという事を忘れないで下さい。
わたしたちは必ず陸前高田市を世界に誇れる美しい町として復興させます。復興には長い長い時間がかかります。皆さんもその頃には結婚され、お子さんもいるかもしれませんね。わたしたちが復興を遂げた時、どうかご家族で陸前高田市にいらして下さい。そして奥様や旦那様、そしてお子様にボランティアに来た時の話をしてあげて下さい。
皆様、本当にありがとうございました。
平成23年11月22日
陸前高田市長 戸羽 太
昨年、2012年に陸前高田復興支援ボランティアに参加したある卒業生から手紙をもらいました。彼女は今、地元の公立小学校の先生をしているのですが、そこには、こう書かれていました。「わたしは当時、陸前高田のみなさんから多くのことを学び、たくさんの宝物をもらったように思います。わたしが学んだことの一つは、『弱さ』や『小ささ』に徹底して寄り添い続けることの意味でした。今、わたしは、そのことを、わたしの愛する子どもたちに一生けんめい伝えています」
立教大学はこれからも、陸前高田グローバルキャンパスでの学びと体験などを大切にしながら、2011年3月11日を胸に刻み続けてまいります。