諦める理由は決して探さない
——女性機長の夢は大空をかける
日本航空株式会社 藤 明里さん
2017/08/24
立教卒業生のWork & Life
OVERVIEW
法学部を卒業し、日本初の女性機長として今も日本航空株式会社でパイロットとして活躍されている藤 明里さんからのメッセージです。
2000年1月、実機訓練が終盤となった沖縄県宮古島市の下地島空港にて
日本航空で機長を務める藤明里さんは今日も操縦かんを握り、お客さまに安全で快適な空の旅を提供している。
藤さんが飛行機に初めて乗ったのは2歳のとき。「窓の外にお風呂の泡みたいにモクモクと広がる雲が忘れられなくて」。飛行機に魅せられた少女は、高校卒業を前に自分の夢を確信する。
「パイロットになりたい」
当時パイロットになるためには、航空大学校に進学するか、4年制大学を出て航空会社の自社養成パイロットに応募するか、大きくは二つの道しかなかった。しかし、小柄な藤さんは航空大学校の受験資格の身長に届かなかった。そこでもう一つの道にかけるため、立教大学法学部へ。
「自由な校風に引かれました。法学部を選んだのは、社会的な知識が身に付けば、職業の選択肢が広そうかな、って」
ゼミでは開発途上国の問題を専攻。主に途上国と先進国の関係を学んだ。知識はもちろん、担当教員だった女性講師から大きな影響を受けたという。「問題意識を持ってバリバリ働きながらも、女性らしくエレガントに生きることが先生のモットーだった。その姿に憧れました」。
就職活動の時期を迎え、いくつかの航空会社に自社養成パイロットについて問い合わせると、電話口の担当者は、当時女性のパイロットは前例がなかったため難色を示した。「途方に暮れましたが、日本でパイロットを目指すことだけが全てじゃない、と気持ちを切り替えました」。アメリカに渡りライセンスを取る決意を親に伝えると、意外にあっさりと許してくれた。「普通なら大学出たら働け、と言われそうなものですが。両親には本当に感謝しています」。
藤さんが飛行機に初めて乗ったのは2歳のとき。「窓の外にお風呂の泡みたいにモクモクと広がる雲が忘れられなくて」。飛行機に魅せられた少女は、高校卒業を前に自分の夢を確信する。
「パイロットになりたい」
当時パイロットになるためには、航空大学校に進学するか、4年制大学を出て航空会社の自社養成パイロットに応募するか、大きくは二つの道しかなかった。しかし、小柄な藤さんは航空大学校の受験資格の身長に届かなかった。そこでもう一つの道にかけるため、立教大学法学部へ。
「自由な校風に引かれました。法学部を選んだのは、社会的な知識が身に付けば、職業の選択肢が広そうかな、って」
ゼミでは開発途上国の問題を専攻。主に途上国と先進国の関係を学んだ。知識はもちろん、担当教員だった女性講師から大きな影響を受けたという。「問題意識を持ってバリバリ働きながらも、女性らしくエレガントに生きることが先生のモットーだった。その姿に憧れました」。
就職活動の時期を迎え、いくつかの航空会社に自社養成パイロットについて問い合わせると、電話口の担当者は、当時女性のパイロットは前例がなかったため難色を示した。「途方に暮れましたが、日本でパイロットを目指すことだけが全てじゃない、と気持ちを切り替えました」。アメリカに渡りライセンスを取る決意を親に伝えると、意外にあっさりと許してくれた。「普通なら大学出たら働け、と言われそうなものですが。両親には本当に感謝しています」。
免許を取るためアメリカへ やがて日本でもチャンス到来
立教大学卒業後、ロサンゼルス郊外のパイロット養成学校に入り、一から学んだ。学校は日本の自動車教習所のような雰囲気で、趣味で自家用免許を取る目的の人々が老若男女問わず多く通って来ていた。英語は得意ではなかったが、臆することのない性格が幸いし、学校のコーヒールームに集う人たちと交流しながら自然と身に付いていった。
自家用免許だけなら1、2カ月位で取得できるが、働き口があればアメリカでやっていけるかもと考え、10カ月かけて事業用と教官になれるグランドスクールインストラクターのライセンスも取得した。その後、帰国。再度アメリカで職探しをするための資金を貯めようと派遣社員として働き始める。
「ピンクの制服を着て、メーカーの事務所でOLをしていました」
その傍ら、企業の専属パイロットなどで活躍する女性の先輩たちの元も訪ねた。「国内でも仕事がないわけじゃない」とアドバイスを受け、日本でも事業用のライセンスを取ることに。大阪府の八尾空港にある養成コースに通い、免許取得後の1997年、岡山の小さな空港に飛行機を置く会社に就職が決まる。しかし、パイロットとしての経験がほとんどなかったため、整備の手伝いや運航管理、パイロットが出先で泊まるホテルの手配といったことが主な担当。飛行機には移動させるときに乗せてもらう程度だったという。
そんな中、千載一遇のチャンスが訪れる。97年、日本航空のグループ会社としてJALエクスプレス(現在は日本航空に統合)が創設され、ライセンス取得者なら誰でも応募できる採用制度がスタートしたのだ。「これを逃すわけにはいかない」と、藤さんはエントリーに必要な計器飛行証明という資格を取るため、週末などを利用して再び八尾空港へ通った。そして99年、採用試験を見事突破し入社する。
自家用免許だけなら1、2カ月位で取得できるが、働き口があればアメリカでやっていけるかもと考え、10カ月かけて事業用と教官になれるグランドスクールインストラクターのライセンスも取得した。その後、帰国。再度アメリカで職探しをするための資金を貯めようと派遣社員として働き始める。
「ピンクの制服を着て、メーカーの事務所でOLをしていました」
その傍ら、企業の専属パイロットなどで活躍する女性の先輩たちの元も訪ねた。「国内でも仕事がないわけじゃない」とアドバイスを受け、日本でも事業用のライセンスを取ることに。大阪府の八尾空港にある養成コースに通い、免許取得後の1997年、岡山の小さな空港に飛行機を置く会社に就職が決まる。しかし、パイロットとしての経験がほとんどなかったため、整備の手伝いや運航管理、パイロットが出先で泊まるホテルの手配といったことが主な担当。飛行機には移動させるときに乗せてもらう程度だったという。
そんな中、千載一遇のチャンスが訪れる。97年、日本航空のグループ会社としてJALエクスプレス(現在は日本航空に統合)が創設され、ライセンス取得者なら誰でも応募できる採用制度がスタートしたのだ。「これを逃すわけにはいかない」と、藤さんはエントリーに必要な計器飛行証明という資格を取るため、週末などを利用して再び八尾空港へ通った。そして99年、採用試験を見事突破し入社する。
国内初の女性機長誕生 立教の仲間が逆風を支えた
フライト前の打ち合わせスペース
1年間のトレーニングを経て、副操縦士に。「要領を得ない中でめまぐるしく時間が過ぎていき、目の前のことを追い掛けるのにいっぱいいっぱいでした」。大変だった当時を振り返りながら、「でも」と藤さんは続ける。
「苦労をはるかに超えるワクワク感があった。今もそうですが、フライトを終えて家に帰って一息ついたとき、何ものにも代え難い達成感があります」
とはいえ、過去には逆風もあった。「八尾に免許を取りに通っていたときも、周りは男性ばかりで『女性がなんで?』と偏見の目で見られたことも。その瞬間はいい気分はもちろんしませんが、でもそれはその人の感情に過ぎず、私の人生が変えられるわけじゃない。私は私の人生を歩むと強く心に決めていました」。
ストレス解消法は「とにかく話すこと」。「立教時代からの仲間にはよく話を聞いてもらっています。申し訳ないぐらい(笑)」。仕事こそ違うが、女友達はやはり男性社会の中で苦労しながら働いてきた同志。「私の無謀とも思える挑戦を否定したり批判したりせず、多くを語らなくても働くという意味で共感し合えた。同じ価値観の仲間がいることに本当に感謝しています」。
2010年、藤さんは機長に就任した。日本初の旅客機の女性機長の誕生だ。さらにその後、次の目標とする教官資格を取得し、パイロットを指導する教官操縦士に。
「理論的に納得してもらうように教えるのは難しい。教えながら私自身も学んでいます。簡単な仕事ではないけれど、訓練生たちが成長した姿を見たときは、フライトとはまた違った達成感があります」。さらに続ける。
「何でも楽しくなければ続かない。どんな世界でもつらいことがあるのは当たり前、それも楽しさに変えていくように工夫する。それが大切だと思っています」
パイロットの制服姿の藤さんはとてもりりしい。しかし、その笑顔と語り口はとても柔らかく穏やか。立教時代に憧れた女性講師の「エレガントに働く」という教えを、機長となり教官となり、航空業界で働く女性たちの道を切り開いてきた今も貫いている。
最後に現役の学生にこんなメッセージを送った。
「せっかく自由な環境にいるのだから、興味を持ったことは何でも挑戦し、自分の道を決めていけばいい。たとえ周りから『無理に決まってる』と言われても、諦める理由は探さなくていい。だって壁は高ければ高いほど楽しい。経験者の私がそうであったように」
「苦労をはるかに超えるワクワク感があった。今もそうですが、フライトを終えて家に帰って一息ついたとき、何ものにも代え難い達成感があります」
とはいえ、過去には逆風もあった。「八尾に免許を取りに通っていたときも、周りは男性ばかりで『女性がなんで?』と偏見の目で見られたことも。その瞬間はいい気分はもちろんしませんが、でもそれはその人の感情に過ぎず、私の人生が変えられるわけじゃない。私は私の人生を歩むと強く心に決めていました」。
ストレス解消法は「とにかく話すこと」。「立教時代からの仲間にはよく話を聞いてもらっています。申し訳ないぐらい(笑)」。仕事こそ違うが、女友達はやはり男性社会の中で苦労しながら働いてきた同志。「私の無謀とも思える挑戦を否定したり批判したりせず、多くを語らなくても働くという意味で共感し合えた。同じ価値観の仲間がいることに本当に感謝しています」。
2010年、藤さんは機長に就任した。日本初の旅客機の女性機長の誕生だ。さらにその後、次の目標とする教官資格を取得し、パイロットを指導する教官操縦士に。
「理論的に納得してもらうように教えるのは難しい。教えながら私自身も学んでいます。簡単な仕事ではないけれど、訓練生たちが成長した姿を見たときは、フライトとはまた違った達成感があります」。さらに続ける。
「何でも楽しくなければ続かない。どんな世界でもつらいことがあるのは当たり前、それも楽しさに変えていくように工夫する。それが大切だと思っています」
パイロットの制服姿の藤さんはとてもりりしい。しかし、その笑顔と語り口はとても柔らかく穏やか。立教時代に憧れた女性講師の「エレガントに働く」という教えを、機長となり教官となり、航空業界で働く女性たちの道を切り開いてきた今も貫いている。
最後に現役の学生にこんなメッセージを送った。
「せっかく自由な環境にいるのだから、興味を持ったことは何でも挑戦し、自分の道を決めていけばいい。たとえ周りから『無理に決まってる』と言われても、諦める理由は探さなくていい。だって壁は高ければ高いほど楽しい。経験者の私がそうであったように」
※本記事は季刊「立教」241号(2017年7月発行)をもとに再構成したものです。定期購読のお申し込みはこちら
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プロフィール
PROFILE
藤 明里(ふじ・あり)さん
737機長・運航訓練部 737訓練室 飛行訓練教官
1992年、法学部法学科卒業。1992年、アメリカ・カリフォルニア州リバーサイド市営空港のパイロット養成学校に入学、自家用・事業用・計器飛行・グランドスクールインストラクターのライセンスを取得。1993年、帰国。仕事をしながら国内のパイロット養成学校で日本のライセンスを取得。1997年、地方空港を拠点とする航空会社に入社。1999年JALエクスプレス(現・日本航空)に入社。2000年に副操縦士となり、2010年には日本初の女性機長に昇格。
※記事の内容は取材時点のものであり、最新の情報とは異なる場合がありますのでご注意ください。