連携講座「池袋学」|池袋モンパルナスの時代~街が美術を育んだ~
湯本 優希 さん(文学研究科日本文学専攻博士課程後期課程1年次)
2014/06/09
トピックス
OVERVIEW
東京芸術劇場×立教大学主催 連携講座 「池袋学」2014年度<春季>
日時 | 2014年5月18日(日)14:00~16:00 |
会場 | 東京芸術劇場5階シンフォニースペース |
講演者 | 尾崎 眞人 氏(京都市美術館学芸課長) |
レポート
歴史・文化・暮らしなど、あらゆる視点から見た〈池袋〉を考える「池袋学」。第一回は「池袋モンパルナス」に関する講座でした。
池袋モンパルナスとは、詩人として活躍した小熊秀雄が1938年に『サンデー毎日』に発表した「池袋モンパルナス」というエッセーによって世に広まった言葉で、池袋界隈の文化的空間を指します。同時期には上野や文士村として有名であった田端を擁する「モンマルトル」やプロレタリアートによる「落合赤色村」等が点在しており、その中で池袋は美術・文学などさまざまな芸術家が集う「池袋モンパルナス」を形成していました。また、「長崎アトリエ村」という創作支援に特化した居住空間も広がっていました。今回の講座では、京都市美術館の尾崎眞人氏より、これらふたつの空間が芽生えた池袋という芸術の土壌についてお話しいただきました。
池袋モンパルナスとは、詩人として活躍した小熊秀雄が1938年に『サンデー毎日』に発表した「池袋モンパルナス」というエッセーによって世に広まった言葉で、池袋界隈の文化的空間を指します。同時期には上野や文士村として有名であった田端を擁する「モンマルトル」やプロレタリアートによる「落合赤色村」等が点在しており、その中で池袋は美術・文学などさまざまな芸術家が集う「池袋モンパルナス」を形成していました。また、「長崎アトリエ村」という創作支援に特化した居住空間も広がっていました。今回の講座では、京都市美術館の尾崎眞人氏より、これらふたつの空間が芽生えた池袋という芸術の土壌についてお話しいただきました。
板橋区立美術館では池袋モンパルナスとアトリエ村の関係性に鑑み、1987年に収集方針であった〈区内作家〉を〈池袋モンパルナス作家〉に広げたそうです。同じ頃、池袋モンパルナスに関する調査も始まり、注目を集め始めていました。このお話では池袋モンパルナスとアトリエ村界隈の深いつながりを意識させられました。
次に長崎アトリエ村の歴史についてのお話がありました。長崎アトリエ村には「すずめヶ丘アトリエ」「地蔵堂・城西西アトリエ群」「さくらヶ丘パルテノン」「つつじヶ丘アトリエ」など土地ごとにいくつものアトリエ群がありました。
続いて、池袋モンパルナスの当時を知る方々への聞き取りによって得られた見取り図などを地図に落とし込み、美術年鑑などと細かに照合するという調査について紹介してくださいました。多くの芸術家の足跡を見て、普段何気なく歩いている池袋がかつて芸術の地であったことを視覚的に確認でき、とても驚いたと同時に誇らしいような気持ちになりました。
1923年の関東大震災以降、池袋に流れ込んできた芸術家の中には地方出身の画家も多く、彼らのためにアトリエを作ろうとしたことがアトリエ村形成のきっかけのひとつだそうです。1930年には下宿屋であった培風寮が芸術家の受け入れをはじめ〈ただで住める下宿〉と呼ばれました。1931年~1935年が「アトリエ村前期」、1936年~1945年が「アトリエ村後期」、1946年以降が「戦後のアトリエ村」とされ、前期から後期への転換は入居者が芸術家から芸大の学生に移っていったことが挙げられます。しかし、戦後にはアトリエ村は崩壊し、人々は居住空間を西に移しました。
こうしたアトリエ村は単なる貸家とは大きく異なっていました。例えば、画家の家であれば、描いた大きな絵を外に運び出すための大きな戸があったり、彫刻家の家であれば、粘土の置き場が設けられていたり、採光を一定にすることで影のでき方が変化しないよう窓が北向きだったりと、芸術家にとっての利便性が追求された居住空間だったそうです。
次に長崎アトリエ村の歴史についてのお話がありました。長崎アトリエ村には「すずめヶ丘アトリエ」「地蔵堂・城西西アトリエ群」「さくらヶ丘パルテノン」「つつじヶ丘アトリエ」など土地ごとにいくつものアトリエ群がありました。
続いて、池袋モンパルナスの当時を知る方々への聞き取りによって得られた見取り図などを地図に落とし込み、美術年鑑などと細かに照合するという調査について紹介してくださいました。多くの芸術家の足跡を見て、普段何気なく歩いている池袋がかつて芸術の地であったことを視覚的に確認でき、とても驚いたと同時に誇らしいような気持ちになりました。
1923年の関東大震災以降、池袋に流れ込んできた芸術家の中には地方出身の画家も多く、彼らのためにアトリエを作ろうとしたことがアトリエ村形成のきっかけのひとつだそうです。1930年には下宿屋であった培風寮が芸術家の受け入れをはじめ〈ただで住める下宿〉と呼ばれました。1931年~1935年が「アトリエ村前期」、1936年~1945年が「アトリエ村後期」、1946年以降が「戦後のアトリエ村」とされ、前期から後期への転換は入居者が芸術家から芸大の学生に移っていったことが挙げられます。しかし、戦後にはアトリエ村は崩壊し、人々は居住空間を西に移しました。
こうしたアトリエ村は単なる貸家とは大きく異なっていました。例えば、画家の家であれば、描いた大きな絵を外に運び出すための大きな戸があったり、彫刻家の家であれば、粘土の置き場が設けられていたり、採光を一定にすることで影のでき方が変化しないよう窓が北向きだったりと、芸術家にとっての利便性が追求された居住空間だったそうです。
芸術の地として栄えた池袋モンパルナスの意味とは、単なる芸術家の集まりではありません。彫塑において言えば、現在では1945年までを〈近代美術〉、それ以降を〈現代美術〉と定義し、〈現代美術〉の特色は物質が持つリアリティーを重視することだとされていますが、明確にそれらを打ち出した人々が現れたのは1968年でした。そういった時代の境目において、池袋モンパルナスの作家の中には、戦後に解体する人体などをモチーフとしていた人々がいました。それが現在では〈戦後美術〉と呼ばれるべきものの担い手であった池袋前衛美術会の作家たちです。このように池袋モンパルナスの芸術には美術史では語られることのなかった「もう一つの近代」を発見できるのです。アトリエ村形成時から、「池袋モンパルナス」という土壌には地方文化が蓄えられていき、さらに官展系作家と在野の作家、作家と学生といった互いの所属や党派を超えた交流は、自由区意識の高まりと作家自身のアイデンティティーの強化につながりました。数多くひしめく芸大生や芸術家同士が互いにつながりを持ち、切磋琢磨し合いながら創作に励むという雰囲気が街全体にあった「池袋モンパルナス」という土壌に育まれたからこそ花開いた芸術が数多くありました。
この講座に参加し、かつて街全体が芸術を育む土壌であった池袋を知り、現在の池袋のどこかにその名残があるのではと改めて池袋を思い起こしたり、池袋モンパルナスから現在に至るまでの池袋の変遷に興味を持ったりと、池袋に対する新たな視点を得られました。講座終了後には、さまざまな理由で池袋の街を歩いているだろう人々を見て、「池袋モンパルナス」を知ってほしい、そして、それを意識して池袋を見てほしい、と強く思いました。
今後の講座でもこのように〈池袋〉に関する新たな視点を得ることで、普段の街並みが、一つ、また一つと違って見えるようになるのだろう、と考えるととても楽しみです。
※記事の内容は取材時点のものであり、最新の情報とは異なる場合がありますのでご注意ください。
この講座に参加し、かつて街全体が芸術を育む土壌であった池袋を知り、現在の池袋のどこかにその名残があるのではと改めて池袋を思い起こしたり、池袋モンパルナスから現在に至るまでの池袋の変遷に興味を持ったりと、池袋に対する新たな視点を得られました。講座終了後には、さまざまな理由で池袋の街を歩いているだろう人々を見て、「池袋モンパルナス」を知ってほしい、そして、それを意識して池袋を見てほしい、と強く思いました。
今後の講座でもこのように〈池袋〉に関する新たな視点を得ることで、普段の街並みが、一つ、また一つと違って見えるようになるのだろう、と考えるととても楽しみです。
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