2020年度チャプレンからの今週の言葉チャペル

2021.3.24

2020年度立教大学卒業礼拝(池袋) 奨励
立教大学チャプレン 金 大原

 卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。長年通っていた学校を卒業し、社会人になるにあたって、今更ではありますが、「人間の成長」について考えてみたいと思います。
 すべての人は体の成長と共に精神的にも成長できることを願っているでしょう。精神が成長するためには自分の心を映してみる鏡を持つべきです。周りにいる人々、すなわちご両親と学校の先生、そして仲間たちがまさにその鏡です。彼らを通して自分の姿を見ることができ、自分の人生がどこに向かっているのかが分かります。

「一時しのぎとしての自分、本当の自分」
 先ほど読まれた聖書を記したのは使徒パウロです。使徒パウロは「福音にふさわしい生活を送ること」を求めています。福音とは「良い知らせ」という意味で、私たちの生活が他の人々に良い知らせにならなければならないということです。誰でもこうなりたいと思っているはずですが、実際にはたやすいことではないでしょう。なぜかというと、まだ「自分自身」から自由ではないからです。「自分自身」を最優先にしているのが問題ということです。この「自分自身」からどうすれば解放できるか、その秘訣を聖書から学びたいと思います。
 使徒パウロは「どんなことがあっても、敵対されてもひるむことはない」、すなわち、自分自身から自由になった人は何があっても「恐れない」と言っています。「恐れを知らない人」、格好いいとは思いますが、普通の人間である私たちは訳の分からない恐怖に襲われる時が多いのが事実です。それが私たち人間の運命かもしれません。でも、その恐れの原因を探って知っておけば、ある程度その恐れから解放できるのではないかと思います。
 すべての恐れの根源には「自己愛」があると思っています。自分を愛することが悪いわけではありません。必要なことでもあります。問題は、愛するその「自己」とは何かにあります。「自己、自分自身」というと、目に見える「自分」の姿、すなわち、今の立場、位置、地位など、社会的な役割を「自分自身」と同一視する傾向があります。それを愛し、それを守ろうとするから大変なのです。守らなければならないものがある人には、世の中が敵に見えるしかありません。ポケットに多額のお金を持っていると、道行く人たちが泥棒のようで不安になったことがあると思います。今の地位を守ろうとすると、周りの皆が競争の対象になり、その地位を自分自身と同一視していたので、それを失うと自分が空になりそうで不安なのです。今の自分の生活を立派に飾っている飾り物が全部消えても、その後も残るもの、それが本当の「自分」ではないでしょうか。
 そこから目を開けてみると、自分は誰かのおかげで今まで生きてきたのが分かります。自分の人生を支えるためにどんなに多くの人が苦労しているのかが分かります。それからもう少し深くまで入ってみると、その人たちの支えよりもっと根本的な何かがあることに気づくことになります。それは神の愛です。その根本的な愛を知っていて、それを信頼する人は恐怖に襲われることがありません。もちろん、時には落胆することも、恐れることもあるでしょう。でも、どんな場合でも希望を失うことはありません。一時しのぎとしての仕事や地位を「本当の自分」として錯覚しないこと、それで褒められても高ぶらず、知ってもらえなくても落胆しないこと、ただ与えられた時間に忠実でいることこそが何より重要であるということです。

「正しく立つ」
 申し上げたいのは、この「自分自身」という頭の痛い問題とまともに向き合ってみたのかということです。イエスは、本格的な活動の前に荒れ野に行かれて40日間も断食して祈られました。使徒パウロは回心後、本格的に伝道活動をするまで、アラビアで3年間の待機の時間を過ごしました。これらは神様という鏡に自分を映してみる時間でした。この辛いプロセスを通して、彼らは崖っ縁でも揺るがない丈夫な柱を自分の中にととのえることができたわけです。
 こうやって自分の問題が解決し解放されると、他人の重荷を分かち合って担うことができます。自分の中にある喜びと平和を分かち合ってやることもできます。もちろんたやすいとは言えません。善意を持っているからといって皆に喜ばれるわけではないからです。誤解を呼ぶことがあり、辱められることもあります。助けた人から侮られることもあります。いくらでもあり得ることです。愛を受けたことのない人は、ただで与えられる愛を疑うしかないかもしれません。でも、これは決してがっかりすることではありません。使徒パウロはこれに関して「キリストのために苦しむことも恵みとして与えられたのだ」と言っています。一言で、良い思いから始まった行動で恥を受けても、それは神の恵みなのだということです。

「共に立つ」
 自分の問題から解放されると、他人と協力し調和をなすことができます。私たちが直面する人生の課題は、実は一人では解くことができません。だから神様は私たちに仲間を与えられました。それで、使徒パウロは、「心を一つにして共に戦うこと」と言っているわけです。悪魔は「分裂させ、対立させて支配しよう」とします。でも、神様は一つにして自由にします。私たちは互いのために協力しなければなりません。これはコロナ禍にあって、もっと明らかになっています。皆の命がつながっていることを、周りの人々が健康でないと自分も健康にならないことを、実感しているのではないでしょうか。
 他人と交わることは立派なことでしょう。ワンマン、つまり何でも一人でやってしまい、自分の思い通りに支配する独裁的な人には魅力がありません。でも、交わりの中で自分を失ってしまうと、それも問題です。そのような面で、イエスに倣ってほしいです。イエスには「大食漢で大酒飲み」というあだ名がありました。個人的にはこのあだ名が好きです。これは、イエスの敵対者たちがイエスを責めるためにつけたあだ名ですが、このあだ名こそがイエスの生き方の特徴をそっくりそのまま表していると思います。イエスは真面目過ぎで面白くない宗教だけを教えていたわけではありません。実は、イエスが行かれたところではどこでも宴会が開かれました。イエスと一緒にいると人生が祭りに変わりました。イエスはワインを好まれたようですが、でも、イエスは飲み助ではありませんでした。疲れた人たちと喜んで交わりながらも、一瞬もご自分の本分を忘れることはありませんでした。調和をなすけれども、同じにはならなかったということです。

 葛藤と不信の時代とも言われますが、私たちはその中で新しい流れを作るために呼ばれています。一人ではなく仲間たちと一緒に呼ばれています。立教を卒業して社会に旅立つ皆さん、まず自分を知り、自分という問題から解放し、自分を映してみる鏡でもある人々と交わって、協力できる人になるように。皆が一つになるという神の素晴らしい計画に共にあずかることができるようにと祈ります。
 あらためて、ご卒業おめでとうございます。

2021年3月24日
2021.3.23

2020年度立教大学卒業礼拝(新座) 奨励
立教大学チャプレン 金 大原

 卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。今の状況とこれから作っていくべき社会の様子を考えながら聞いていただきたいと思います。
 「レガート(Legato)」という音楽用語をご存じと思います。連続する二つの音を途切れさせずに、なめらかに続けて演奏するという意味で、一つの音符とその上か下の高さが異なる二つの音符をつなぐ新月のような形をしている記号がレガートです。もしかしたら、人間はレガートで造られたのかもしれないと思ったことがあります。命の本質は「つながり」です。誰も一人で生きることはできません。それで「へその緒」を「生命のレガート」と言う人もいます。
 ところが、音楽にはレガートだけがあるわけではありません。レガートがスムーズにつなぐ架け橋の役割をするのであれば、音符の長さを半分にして演奏する「スタッカート(Staccato)」は音をポキポキと切って特定の部分を強調します。メロディーを滑らかにキレイに演奏することも大事ですけれども、時には重要な部分を強調するために切ることも大事です。これと同じく、音楽において音のつなぎと切ることに劣らないほど休止符、つまり余白も必須要素です。美しい音楽は、基本となるメロディーはもちろん、このレガートとスタッカートと休止符など多くの要素が調和をなして造られるものです。
 私たちの人生もこの音楽と同じでしょう。ただ何でも頑張ってやったからと言って良く生きたとは言えません。一人で全力を尽くす時があれば、他人と協力する時があり、休まねばならない時もあります。山に登る時も、山を征服の対象と思って頂上だけを見て走ると、征服感は得るかもしれないけれども、山や森の美しさを感じることはできません。周りを、森の中を見ながら、時には後ろをも振り返り、時には休みながら、ゆっくり歩くと、自然を満喫できるわけです。
 当たり前のことですけれども、実際には容易なことではありません。なぜかというと、世の中は私たちを競争に追い立て、個人主義に追い立て、共同体性を憎むようにするからです。違いを認めるよりは、差別や憎悪に慣れているのが事実です。今もやはりそうです。コロナ禍によってつくられた社会的恐怖は他人を潜在感染者として見るようにします。エレベーターに乗るとまずマスクをしているかどうかを確認し、公共の場で誰かが咳でもすれば肝を冷やします。誰にでも感染の可能性があるという面で、他人はとりあえず距離を置かなければならない不安の対象になってしまいました。これがひどくなって嫌悪の原因にもなっています。ヨーロッパでは、アジア人を差別し嫌悪し、アジア人という理由でウイルス扱いされる人種差別が実際に行われました。
 距離を置くこと、間隔をあけることは、他人を排斥して線を引く冷たい行動ではありません。これは互いを尊重することで、もっと良い関係を結ぶためのエチケットなのです。社会的距離というのは、排斥の意味ではなく、配慮と尊重の意味を持っています。そういう面で、互いに安全で適当な距離を確保しながらより良い関係を模索すること、これはコロナ禍が終わってからも一つの文化として保たれて良いのではないかという思いもしました。他人との距離を尊重する関係の文化のことです。
 昨年の今頃、特別な映像を見て感動したことがあります。社会的距離の確保が日常になっている状況の中で、十何人の人がそれぞれの場で一つの歌を歌い、ハーモニーまで入れて、それを編集して一つの合唱曲にした映像でした。場所も違い、時間も違い、声も違うはずなのに、不思議なことに立派なハーモニーを作り出していました。彼らを一つにしてくれたのは、今の状況を心を一つにして乗り越えようという切なる願いだったのでしょう。
 それぞれの声が交わってきれいなハーモニーを作り出しているのを見て、このような形にでも皆をつなげてくれる今の技術に感謝しました。オンラインの中はすでに脱領土化が実現されていたのです。どの国にいても、肌の色が違っても、私たちは互いを呼び答えているのです。コロナによってつくられた思いがけない風景でした。その後、武器工場で人工呼吸器や医療用のマスクを作る、というニュースを読んだこともあります。「剣を打ち直して鋤(すき)とし、槍を打ち直して鎌とする」と想像していた、旧約聖書の預言者のビジョンが実現できることを象徴的に見せているようで、胸が熱くなっていました。
 共に生きているけれども葛藤があるのは、それぞれが異なって創造されたから仕方ない現実かもしれませんが、でも、葛藤を超えて共存を模索し、互いを尊重する世界を造ることは、立教を卒業する者、そしてクリスチャン、神の国を夢見る者、社会をより良くしようとする者なら、決してあきらめてはいけない目標です。キリスト教の精神、愛の精神というのは、人と人との間を分け隔てる分離の障壁を壊すことです。コミュニケ—ションを妨げる物理的な壁はもちろん、憎しみ、妬み、恨み、差別や嫌悪という壁、見知らぬ人の近づきを許さない心の壁をも壊すべきです。

 今、私たちは、皆の命がつながっているという事実、周りの人々が健康でないと自分も健康にならないことを深く実感しています。コロナ禍の贈り物です。和解と一致と平和の世界、愛と理解と信頼と尊重に基づいた新しい文化、これから皆さんが造っていかねばならない世界です。立教を卒業して社会に出る皆さんが、神に信頼し、自分をも信頼し、皆で協力して、よりよい社会建設のために仕えるようにと祈ります。

2021年3月23日
2021.1.18

人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
(申命記 8章3節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 新しい年、新しい時を迎えました。いつもならば、「今年はどんなことがあるだろう」と期待を抱く年初ですが、「今年はどうなるのだろう」という不安と共に始まりました。しかし、希望を込めた祈りの想いを私たちは忘れずにいたいのです。諦めずに望みを抱いていたいのです。
 今、思い描いている望みが叶えられないような場面が多くありますが、それで私たちの生きる糧のすべてが失われるのではありません。自身が望んだ形、欲している時ではなくても、私たちを生かす糧は、生かそうとする望みは、そこかしこに備えられているのです。
 
 ある人が言っていました。
「人は口から+(プラス)のことも−(マイナス)のことも『吐』く。
 不平不満ばかり思う−(マイナス)を取り去れば、想いは『叶』うものだ」

 すべてのことを明るく前向きに考えることはできないけれど、いつも希望ばかりを見つめていられるわけではないけれど、確かなことは、「わたし」と「あなた」の今日が与えられたということ。そのことに望みを発見することから、生きる糧を数え始めていきたいと思うのです。

2021年1月18日
2020.12.21

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。
すべての人は、神によって生きるからである。」
(ルカによる福音書 20章38節/聖書協会共同訳)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

みんな赤ちゃんだった

 2020年、コロナ禍のクリスマスを迎えます。クリスマスには教会へ、チャペルへ!と言えない今、「Stay Homeのクリスマス」を覚悟しながら、世界中がこの事態に向き合います。そのために準備してきた「クリスマスの喜びを届けたいという想い」が、数多の動画配信などで「今、この時」を包んでいます(立教学院クリスマス・イブ礼拝の動画も是非ご視聴ください)。
 今、働くことができない人がいます。何もすることがないと思う人がいます。できることが何もないと思う人もいます。それゆえに、もう辛くて、苦しくて、消えたい、死にたいと思う人もいます。けれども、思い出してみてください、赤ちゃんの頃を。ただ生きていることだけがすべてだった頃が、あなたにはあるということを思い出してみてください。
 生まれて間もない乳飲み子に、朝、「今日は何をする?」と訊ねても、夕に「今日は何していた?」と訊ねてみても、その赤ちゃんは、天を見上げて、ミルク飲ませてもらって、おむつを替えてもらって、寝ては起きて、ただそれだけです。人は誰でも、人の手を借りて、助けられて生きています。みんな赤ちゃんだったことがあり、そうやって生きていた、生かされていた時がありました。目がさめて、その日をただ生きることが、やることすべてであった、そんな時があるのです。そんな赤ちゃんだった時を、人はいつしか忘れていきます。でも、あなたも、わたしも、ただ生きていることだけがすべてで、それで人を喜ばせてきた、幸せにしてきたのです。それが「飼い葉桶に寝かされた乳飲み子」、赤ちゃんイエスが放つメッセージです。
 冒頭の「生きている者の神」という聖句から、それは「生きている者」と共に「生きている神」なのだと気づきました。生きているすべての人と共に、人が生きることすべてにおいて、生きて共にいるのが神なのです。それを「インマヌエル」と呼び、まさしくクリスマスは、インマヌエル・イエス・キリスト、すなわち「わたしたちと共におられる神、救い主イエス」という約束のはじまりです。離れていてもインマヌエル(神は共におられる)。孤独の中にもインマヌエル(神は共におられる)。Stay Homeならば、Stay with usインマヌエル。
 さあ、「生きている神」によって、わたしたちは今日も、ただ生かされているということを思い、世界に向けて喜びと祈りを発信しましょう。赤ちゃんの姿を囲むクリスマスの光景を思いめぐらしながら、誰もがみんな赤ちゃんだったことへと光をあてて、あなたの命を輝かせましょう。

2020年12月21日
2020.12.14

主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。
主は私を緑の野に伏させ、憩いの汀に伴われる
(詩編 23編1~2節/聖書協会共同訳)
立教大学チャプレン 金 大原

ガゼルの知恵

 たまに、行き詰った時にはカフェに行き、コーヒーを飲みながら時間を過ごしたりしていました。今はカフェでゆっくりできないと思うともどかしいです。こんな時こそ緊張を解く知恵が必要でしょう。
 アリアナ・ハフィントン(Arianna Huffington, 1950~)のガゼルの話が興味深いです。「ガゼルは危険を感じると、たとえば豹や獅子が現れると一目散にかけて逃げる。しかし危険が去るとすぐ立ち止まって何の心配もなく平和に草を食い始める。残念ながら、人間は実際の危険と創造の中の危険を区別することができない」(『サード・メトリック』から)ということです。ガゼルの知恵を学びたいです。常に緊張状態のままで過ごすことはできないからです。日常の中の小さな平和を喜んで享受できればと思います。今こそがゆるゆると平和を楽しめる時期かもしれません。
 皆にこうなってほしいと思いながら、アイルランドの古くからある祝福の言葉を紹介させていただきます。
 「あなたの行く手に道が開かれますように。
  いつも追い風が吹きますように。
  日はあなたの顔を暖かく照らし、
  あなたの行く所、雨はいつも優しく降りますように。
  また会う日まで神の御手に抱かれていますように。アーメン」

2020年12月14日
2020.12.7

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
(日本聖公会祈祷書 「主の祈り」より)
立教学院チャプレン長 五十嵐 正司

 この祈りは、イエス・キリストが弟子の求めに応えて教えられた祈り「主の祈り」と言われる祈りの一節です。弟子たちは「主の祈り」を唱えることにより、イエスと共に生きる自分たちのアイデンティティーを確かめていたのではないかと考えられます。また、この祈りはイエスが自ら祈っていた祈りを弟子たちに教えたのではないかと私には思えるのです。
 イエスがイスラエルのガリラヤ地方に住んでいた頃、住民の多くの人たちは極貧ゆえに食べることに苦労していたと言われています。家族に今日の食べものさえ用意できない生活は、何と、苦しいことか。その苦しみを目の当たりにしたイエスは、人々の苦しみに心から共感し「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と父なる神に祈り、また、弟子たちにも、同じように人々に寄り添い、人々の苦しみに共感して祈るようにと教えられます。
 今年7月に発表された厚生労働省の調査によると、約7人に1人の子どもが貧困状態にあります。又、国外においても「日ごとの糧」を得る事ができずに苦しむ人々の様子が幾つもの機関から知らされており、心に痛みを覚えます。イエスのように、またイエスの弟子たちのように、私たちもこれらの知らせに正面から向き合い、何もできなくとも寄り添う思いを持って「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。」と祈る者でありたいと願うのです。

2020年12月7日
2020.11.30

すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。」
(ルカによる福音書 1章30節/聖書協会共同訳)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「恐れるな」

 早いもので今年も残すところ1カ月となりました。毎年この時期になると、その年の世相を漢字一字で表現する「今年の漢字」なるものが発表されます。コロナ禍と共にあった、この一年を振り返り、わたしは、「今年の漢字」を、「恐」と予想してみました。年初から、連日のようにメディアには、「感染リスク」、「自粛」、「医療崩壊」などといった悲愴な言葉らが並び、すべてがコロナ・パンデミックへの「恐れ」に飲み込まれてしまった一年に想えるからです。

 そのような「恐れ」が支配した一年でしたが、今年もまた、わたしたちは、イエスの誕生を待望する、アドベントの期節を迎えました。「イエス」の名の意味は「神は救い」です。この神の救いの「到来(ventus)」に「向かって(ad)」往くこと、それがアドベント(advent)の本意です。

 さて、イエスの誕生を記すクリスマス物語は、大天使ガブリエルの聖母マリアへの受胎告知、「恐れるな」という言葉から、その物語が綴られていきます。「恐れるな」・・・・・。「恐れ」は、いつも、人を硬直させて、踏み出そうとする足を竦ませます。「恐れ」は、前に進もうとする、その想いを挫かせ、さらなる「恐れ」を生み出します。「恐れ」は、何も良いことを生み出すことはしません。けれど、大天使の「恐れるな」との声が、この「恐れ」を打ち壊しました。この声は、マリアをして、その脚を強め、立ち上がらせ、信頼の中を救いへと向かわせて往きました。クリスマス物語は、その事実をわたしたちに語ります。救いへは、「恐れ」の森を彷徨うことではなく、「信頼」の光の中を往くことによって辿り着くのです。

 「恐れるな」・・・・・辛く厳しく悲哀に満ちた、コロナ禍の今年であるからこそ、「今年の漢字」は、「恐」ではなく、「頼」の字が選ばれることが相応しいのかもしれません。なので、わたしの予想も、「恐」から「頼」に変えておくことにします。

2020年11月30日
2020.11.23

だから、目を覚ましていなさい。
(マルコによる福音書 13章35節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 睡眠は健康上不可欠なものですが、眠っている間のことはほとんど記憶がありません。ちゃんと呼吸をして、目も動いていて、音も聞こえているし、匂いも嗅いでいます。だけれどもその事を脳は記憶していないのです。もちろんそれは身体を休めるために備わっている機能なのでしょうが、考えてみれば不思議なものです。ちゃんと五感は機能しているのに心に記憶はされない・・・。眠るということは身体で感じているはずの事を、そして心で感じているはずの事を記憶しないこと、つまり無感覚であることと言えるのかも知れません。
 目を覚ましている間、私たちはたくさんの事を感じます。美味しい、美しい、楽しい、悲しい、寂しい、痛い、そのような感覚は記憶され、私たちの心の経験となっていきます。その心の経験は、他の人を想い、想像し、共感していくための大切な素材です。

 ある人が「イエス・キリストは、優れた共感力をもっていた」と言っているのを聞いた事があります。私の考えを言葉にすれば、「イエス・キリストは、目を覚ましていた(眠らなかった)」となりますでしょうか。イエス・キリストは、目の前で喜んでいる人・悲しんでいる人の、時には敵対している人の想いを感じ、自分の想いをその人の隣に佇ませていったのだと思うのです。
 社会には「自己責任」という原則があるのかも知れませんが、それだけではあまりにも他に無感覚で、見聞きしていても、その場にいたとしても、自分以外にはまるで眠っているように心も身体も動かさず、記憶しないことになってしまいます。だから、私たちは目を覚ましていたいと思うのです。
 ずっと昔、キリスト教が世に誕生した頃、「私は目を覚ましている者です」との言葉が、キリストを信じる者の自己紹介だったそうです。それは人を想い、自分の想いを沿わせていく姿勢を示していたのかも知れません。「私は目を覚ましている者」、そのように生きる事ができたらと思うこの頃です。

2020年11月23日
2020.11.16

殺してはならない。
(出エジプト記 20章13節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

多様性

 大学生のはじめの頃、教授が「多様な見解」を講義するのに対して、私としては「ズバリ、正解はコレ」と言ってくれた方がありがたい、と感じていました。「もっと、断定的に語ってほしい」と。それまで私が受けてきた教育は、「いかに速やかに正解を回答するか」で競わせられていたからです。だから「ああでもない、こうでもない」議論は面倒くさくて、「ズバリ、コレ」と言ってくれる人を求めていました。でも、大学の先生たちは、「ああでもない、こうでもない」議論や「あれもある、これもある」多様な見解に目を輝かせて語ります。そんな熱い姿を前に、学生の私は「単位をもらえればいい」と冷酷でした。自分の利益になるかどうか、単位になるかどうか、就職に有利かどうか、安定した暮らしができるかどうか、余生をラクに送れるかどうか、…それらのために有効な物事、そして有効な人だけに関心を向けてゆく、そんな“昭和バブリー”な時代の価値観が、私にも染みこんでいたのかと恥じ入るばかりです。
 そこには、「多様性」という言葉を冷静に聞く余地はありませんでした。今、コロナ禍にあって、改めて、「多様性」を聞く余地のなかった時代の感覚が舞い戻って来ないように、自らの心に問いを投げかけています。「ズバリ、コレ」とは言えないのに、それを求めようとしている自らの心に問いを投げかけています。
 「多様性」は、年齢、性別、職業、国籍、人種、宗教、思想、学歴、生活習慣などの違いを互いに認め合って、それを生かし合うことです。まさに、「みんなちがって、みんないい」という金子みすゞの詩の一句に集約されるような感覚。でも、「多様性」を認め合えるためには、自分自身が相当な多様性の中のひとり、一個性であることを、しっかりと自覚していなければなりません。他者との関わりの中で、違いを知り合い、認め合ってゆく歩みの中で、「わたし」を、個として知り続けなければなりません。それができないでいる限り、「みんなとちがって、わたしダメ」あるいは「みんなとちがって、あいつヘン」という「同調圧力」が発生します。「多様性」を受け入れられるとき、「同調圧力」には屈しないでしょう。その中で唯一守るべきは、ズバリ、コレ、「殺スナカレ」(殺してはならない)。旧約聖書、モーセに授けられた「十戒」の一つ。神が人間に「契約」として授けた言葉として記されていますが、コレこそ、全世界的な永遠のコモンセンスだと私は信じています。
 「殺す」とは、存在を切り捨てることでもあります。他者を否定することでもあります。自己の内面においても、有効か無効かを切り分けて、無効と判断したものを捨て去ることです。それを禁じた「殺スナカレ」は、「多様性」の道しるべです。コロナ禍を、多様な存在の仕方、多様な価値、多様な学び方、働き方に拓かれてゆく世界になる兆しとして、立ち向かっていたいと思います。

2020年11月16日
2020.11.9

イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
(マタイによる福音書 8章20節)
立教大学チャプレン 金 大原

故郷喪失

 トマス・ウルフ(Thomas C. Wolfe)の小説『汝再び故郷に帰れず(You Can't Go Home Again)』の主人公である「ジョージ・ウェーバー (George Webber)」は、自分を育ててくれた叔母が亡くなり、15年ぶりに故郷に帰る。列車の窓から田舎の町々を見て感慨にふける。過ぎ去った日々を顧みれば遠回りの旅だったが、故郷の道や家々、人々の姿をすぐ思い浮かべることができた。しかし、故郷の町は昔と違って変わっていた。小さい田舎町でも不動産投資と開発が勢いを振るっていたのだ。要らないほどの道と橋が造られ、高い建物が建てられるなど、故郷はもはや昔の姿を失い、人情あふれる温かい町は消え失せてしまった。故郷と自分とのつながりが切れた思いに、ウェーバーは寂しさを感じる。
 故郷喪失こそが現代人の心の問題であると思う。どこにも心を寄せるところがないことほど寂しいことがあるだろうか。たまに、寂しさが押し寄せてくる時には「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われた方の言葉が思い浮かぶ。イエスも寂しかったのだ。だからこそイエスは他の孤独な人々のために心の故郷、頼りになってあげることができたのかもしれない。
 故郷を離れてあてもなくさすらう人々、どこでも歓迎されない人々が多くいる。行きたくても行けないことと、行けるけど行かないことは全く違う。故郷に帰りたくても行けない人々には心の故郷になってくれる人が必要だろう。一緒にいると、不安や緊張がほぐれ、憂いや恐れがなくなり、呼吸を楽にさせてくれる人が一人でもいれば、人生がいくら辛くても耐えられる。故郷喪失の寂しさは心の故郷になってくれる誰かによって半減されるのである。

2020年11月9日
2020.10.26

天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。
(マタイによる福音書 24章35節)
立教学院チャプレン長 五十嵐 正司

 自分たちが当たり前のように生活している土台が、突然に崩れて、無くなってしまう。最近、このような光景をTV画面を通してしばしば目にします。これ迄に無かったような豪雨による氾濫。東京の多摩川、長野の千曲川、福岡の筑後川、熊本の球磨川の氾濫。私が訪ねた幾つもの場所、泊まったホテルが被害を受けています。その地の人々を思うと心が重くなります。また地球温暖化による山火事の発生によりオーストラリア、アメリカ、ロシアに多くの犠牲者、被災者が出ています。また新型コロナウイルス感染症により、これまでの生活ができず、半年以上足踏み状態にさせられている人々。人によっては生きる土台が崩され、お手上げ状況となっている。これらを思い巡らしている時、イエスの言葉が思い浮かびます。
 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。何があろうとも、イエスの言葉は決して滅びることはない。イエスは、すべてをご存じである。すべての状況を、すべての人の心の思いを知っており、世の終わりまで、いつも共にいる(参照:マタイによる福音書28章20節b)と約束してくださっている。強い、励ましの言葉です。

2020年10月26日
2020.10.19

朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
(マルコによる福音書 1章35節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「意宣り(いのり)」

 イエスは、「祈りの人」だった、と伝えられています。
 「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」

 イエスは、祈るとき、「人里離れた」場所を選びました。一人になるためです。そして、一人祈ったあと、イエスは、必ず動き出しました。イエスにとっての「祈り」とは、自らの「存在」の意味を問い直し、神と共に、自らが何をすべきか・・・・・ そのことに、想いを馳せ、そして、動き出すことを「決断」させるものでありました。

 「イエスは言われた。『近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。』」
 イエスこそ、最も、祈りを必要としている人の一人でした。

 「祈り」というもの・・・・・  祈ったからとて、周りの状況や環境を変えることはできない。ただ、祈りは、「自らを変えていくだけだ」とは、ずいぶん昔に読んだ本の中で出会った言葉です。

 「祈り」の語源には、諸説ありますが、「意(い)を宣(の)る」というところから来たというのが主説です。単純素朴に、意宣りとは、「想いを宣言する」ということです。意宣りが、意宣りとなるのは、それが、内から立ち上がる意思/決意となるときです。さらに、その意宣りは、自分自身の内に、確かな生きる力を取り戻させ、その力を「次の目標」へと広げて往くことを可能にします。

 「次の目標」、「次の頑張り」、「次の地平」へ・・・・・ そこに向かっていくために、わたしたちは意宣り続けていくのです。そして、その祈りの中で、自らの意思が立ち現れる・・・・・ それが確認される・・・・・ 決意される、そんな、意宣りを献げる日々を、今だから、そして、これからも、共に営みながら守る、そのような、わたしたちで在りたい、と願います。

2020年10月19日
2020.10.12

主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。
たとえ死の陰の谷を歩むとも/私は災いを恐れない。
あなたは私と共におられ/あなたの鞭と杖が私を慰める。
(詩編 23編1、4節/聖書協会共同訳)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 少し前の日曜日のこと、主に小学生が教会に集まる「子どもの礼拝」のあと、ある子が私に「徹、またな!」と別れの挨拶をしてくれました。傍らにいた保護者がその子に「こら、『徹先生』でしょ!先生は教会の偉い人なのよ!」とたしなめました(まったく偉いわけではないのですが…)。
 するとその子は「ちがうよ、いちばん偉いのは、いっしょに遊んでくれる友だちだよ」と言い放ち、走り去っていきました。申し訳なさそうに頭を下げて我が子を追う保護者を見送りながら、その子の言葉と想いに感心していました。その子にとって「いちばん偉い人」は、最も大切に想える存在ということ。そしてそれは「いっしょにいる存在」でした。

 自分のことに精一杯で、今日をどう過ごすか、次の一歩をどのように踏み出せばいいかについて思い悩む、あるいは他の人から遅れを取っていないか、自分だけ取り残されているのではないかと不安になる、そのような時、独りであるとの思いが胸に迫ります。けれども、羊と羊飼いがそうであるように、互いを必要とし、大切に想い合って「いっしょにいる存在」があります。たとえ立ち止まっても、迷っても、つまずいても、独りではないのです。
 誰かに心を寄せられていて、誰かに必要とされて、そしていっしょにいる。独りではなく、互いが「いちばん偉い人」であれる幸いが、今日も私たちを支えているのです。

2020年10月12日
2020.10.5

その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。
(ヨエル書 3章1節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

無制限ワイヤレス・ステーションで共に

 今、この時に、あなたはどんな「夢」を描いていますか?「明日の夢」とか「希望」が、ここしばらく描きにくかったかもしれません。実は私自身、「夢」よりも「直近」の「現実」ばかり見て右往左往していました。そんな折に、「老人は夢を見、若者は幻を見る」という聖書の言葉が気になりました(自分は、老人でも若者でもなさそうですが・・・)。
 「夢」も「幻」も、日本語としては、「はかなさ」とか「現実ではないこと」を連想させます。「気休め」や「現実逃避」とも捉えられそうな言葉です。でも、キング牧師の「私には夢があるI have a dream」という有名なスピーチ(1963年8月28日、ワシントン大行進の時)における「夢」は、現実を変革し、今も格闘し続けている力ある言葉です。「幻」も「ヴィジョンvision」と表現してみれば、「展望」や「計画」にも捉えられます。聖書の「夢、幻」は、ちょっと独特な意味合いを持つ表現なのかもしれません。
 若き日に出会った詩、サミュエル・ウルマンの「青春(原題:Youth)」を、最近読み直してみました。「若さとは、人生のある時期のことではなく、心のあり方」、「年を重ねただけで人は老いるのではない。理想を失う時に老いる」、「情熱を失うと魂がしぼむ。心配、恐れ、自己不信が心を折れさせ、魂を塵に戻してしまう」といった言葉が、今の時に必要な気がしたからです。
 今、ウルマンの言葉を手がかりに、こんなくだりも見つけました。「あなたや私の心の中心には、無線通信設備wireless stationがあります」と。そして、「無限なるものから、さまざまな人々から、美しさ、希望、喜び、勇気、力のメッセージを受け取る限り、あなたはいつまでも若い」と続きます。「無限なるもの」と訳した「the Infinite」は、「神、創造主」と訳すべきかもしれません。無限に稼働する「ワイヤレス・ステーション」が私の心の真ん中にも設置されていて、何でも受信できるのです。それが「若さ」だと詠います。
 そこから思います。コロナ禍を通して、無限の真理なる神は、すべての人の心の真ん中にある受信装置をフル稼働させようとしているのだと。だから、つないでみましょう、無限の世界に、夢に、希望に、喜びに。つないでみましょう、人の心の真ん中に「私」、また「あなた」をお互いに受け止め合える受信装置があるのだから。そうして、冒頭の聖句を、こう読み直します。「私/あなたは理想を掲げ、あなた/私は展望を見据える」と。「私」と「あなた」が、明日の「理想=夢」や「展望=幻」を互いに描き合うとき、全地は、絶えず若返ります。この言葉を携えて、今この時を、共に生き続けてまいりましょう。

2020年10月5日
2020.9.28

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
(ヨハネによる福音書 3章3節)
立教大学チャプレン 金 大原

 朝夕はめっきり涼しくなりました。木々のグリーンは徐々に薄くなっていき、果実は熟れて甘くなっていくでしょう。自粛生活が長かったためか、風にそよぐ葦と、黄色く実った稲穂、広々とした野原がとても見たいです。
 この季節になると栗の思い出が浮かびます。子ども時代には、秋分ごろに田舎に行き、夜になると庭でたき火をし、その中に栗を入れておいて昔話を聞いたりしていました。夢中になって聞いていると栗が焦げるのに気づくことができず、時にはいきなりパアンと破裂音とともに栗が飛び出ることもありました。栗の皮に切り込みを入れなかったからです。
 このことは、わたしたち人間と似ているでしょう。わたしたちは他人に傷つけられないため皮を作り出します。この皮が厚いほどエゴは強くなります。エゴが強いことは他人とのコミュニケーション能力が低いことと同様です。「我」という文字の形態は「手」と「戈(ほこ)」の結合で、手に鋭い武器を握っているのがエゴであるという意味でしょう。エゴの強い人に会うと心に傷が残るのはそのためではないでしょうか。
 生き物の中で不死に近いのは「ロブスター」だと聞いたことがあります。ロブスターは成長するとともに皮を脱ぎ捨てて新しくなり、これを繰り返すのだそうです。皮が厚くなりすぎて脱皮できなくなると死ぬということです。
 コロナ禍はわたしたちに何を脱ぎ捨てるべきかをはっきりと教えています。自分だけ得をしたいという考え、公益より私利私欲を追求し、他者の失敗に自己責任を負わせると言う社会の問題を如実に示してくれているのです。皮がむけるような痛みや苦しみはあるでしょうが、成長や新たに生まれるきっかけでもあることを、ぼんやりとでも気づくことができれば幸いです。

2020年9月28日
2020.9.21

自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。
(マタイによる福音書 16章25節)
立教学院チャプレン長 五十嵐 正司

 私たち人間は、他の人と共に生きる者として造られている。これが聖書のメッセージです。創世記1章27節に「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」と記されています。「男と女」と記されている意味を自分とは違う性質を持つ者が造られたと見ることができます。創世記には、人間とは如何なるものか、を神話物語として記していますが、なかでも男アダムが女イブを見捨てた、失楽園の物語は寂しく読むところです。アダムは自分の過ちを神に指摘されたとき、イブに責任を擦り付けます。自分を守ろうとするあまり、共に命を分かち合う相手を見捨てたのです。
 この数年、世界の各地で、自分さえ良ければそれで良しと、他の人を見捨てる風潮が拡がっていることが気になります。公の立場にある者が、悪びれずに、他の人を見捨てる。貴方には関心が無い、勝手にやってくれと言われることは、同じ時代、同じ状況を生きる者にとっては、尊厳が傷つけられたような、寂しい思いになるのではないでしょうか。
 他の人と共に生きることにより、命を輝かせることのできる私達です。イエス・キリストは次のように言われます。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」

2020年9月21日
2020.8.15

立教大学チャプレン団 平和メッセージ
『敗戦から75年目を迎えて』
 立教大学にあって、平和を願うすべての人びとへ

 今年は、1945年8月、日本が日中戦争、太平洋戦争を含む、世界大戦での敗戦を認め、ポツダム宣言と呼ばれる無条件降伏勧告を受け入れてから75年目を数えます。世界が今、新型コロナウイルス感染拡大の災禍に直面する中、また豪雨災害で甚大な被害が続く中で迎える今年の敗戦記念日は、ことさら、わたしたちに、改めて「いのち」について、その尊さ、大切さについて、想いを深めるよう、求めているように感じられます。

 朝鮮半島などに対する植民地支配にはじまり、中国や他のアジア諸国への侵略行為の末、日本は、本土への連日の空爆、沖縄での悲惨な地上戦、広島・長崎への原爆投下などを経験するに至ります。あの凄惨な戦争は、ほんとうにたくさんの人びとの間に、癒やし難い大きな苦しみと深い哀しみを与えました。敗戦の翌年1946年に公布された日本国憲法は、戦争という悲惨と痛みを知った人びとの、もう二度と、こんな戦禍を繰り返すまい、との悔いと、子どもたちに平和を手渡そう、との決意の連続線上にあります。この憲法に謳われた、戦争放棄、基本的人権の尊重は、神の似姿として創られた人間の尊厳を護ることに奉仕するキリスト者のみならず、平和を願うすべての人びとの切なる願いであり、戦争の終結から75年経った今も、決して手放してはならない、希望であり続けています。

しかし昨今、戦争の記憶が遠いものとなるにつれ、大国・強国と称される国々の間で、再びナショナリズムが興隆されつつあります。そして、日本では、そうした国家間の緊張関係に同調するかのように、自国防衛のための高額な兵器などの購買を繰り返し、海外で武力行使が行えるように、戦争の悲惨を知る先達たちの意思としての憲法9条を書き換えようとしています。争うことの残酷さと無意味さを最も知っているにも関わらず、信頼と連帯による平和的な対話の努力が見られない、今の政府の在り方には違和感を覚えざるを得ません。

 今年創立146周年を迎える、わたしたち立教大学にとっての、戦後は、つねに平和の構築に寄与する学問の探究の歩みであったと云えます。それは、本学が、アジア・太平洋戦争の最中、学生たちを多数戦地に送り出した、という深い反省に立ってきたからです。
 今も、世界各地では軍事的な紛争や内乱が繰り返され、難民となる人びとが増え続けています。また利己的な経済活動は、深刻な貧困や環境問題を引き起こしています。立教大学は、自由の学府であると同時に、平和の学府です。社会正義と世界平和に貢献する人を育成すること、それも、わたしたち立教大学の教育的使命と考えます。

 今、わたしたちにできることは、無関心を戒め、隣人への愛に生きるようにとの、キリストの教えに聴き、そして、連帯と信頼とをもって平和と相互理解のための努力を惜しまないことです。敗戦から75年目を迎える今年、正義と平和を希求されながら、日々、立教大学の教育活動を支え、守ってくださっている皆さんと改めて平和への決意を共にしたいと思います。

平和を実現する人々は、幸いである
その人たちは神の子と呼ばれる。
(マタイによる福音書 5章9節)

2020年8月15日
2020.3.6

新型コロナウイルス感染症対応としての「礼拝(公祷)休止」に際して
ともに集って祈れない「わたしたち」の祈り
この祈りの言葉は、各自(ひとり)で祈るために用意しました。声に出して祈っても、黙読して心の中で祈っても自由です。
また、ごく近しい誰かと交互に唱えることも考えて、その場合は、行頭を下げた部分で、分けて唱えるとよいでしょう。


主よ、わたしたちは今、「わたしたち」と声を合わせて祈れないでいます。
  けれど、この祈りを聞いてください。

わたしのささげる祈りが、「わたしたち」皆の声でありますように。
  今、「わたしたち」は心を合わせます。

(今日の状況、出来事、誰かのことを思い起こして)
残念な気持ち、無念な思い、いら立つ心、先の見えない不安を、
  主よ、「わたしたち」とともに抱え、受けとめていてください。

ご高齢の人( — さん)、病気療養中の人( — さん)をお守りください。
  そして、医療と看護に携わる人びと、事態の収束に向けて尽力する人びとを、助け導いてください。

全世界の苦しみ、不安、重荷、課題を、今ともに担ってくださる十字架の主イエス・キリストを仰ぎ見て、
  ともに歩む「わたしたち」としてください。

ともに集い、声を合わせて祈り、主を賛美する時が回復されるまで、
  皆の命をお守りください、主よ、お助けください。
  わたしたちの救い主イエス・キリストによって アーメン

2020年3月6日 立教学院諸聖徒礼拝堂
2020.7.20

この日にあなたたちを清めるために贖いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責が主の御前に清められるからである。これは、あなたたちにとって最も厳かな安息日である。
(レビ記 16章30~31節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「人生に儀礼は必要だ」

 レビ記第16章は、イスラエル共同体の民たちが最も大切なものとして守るべき宗教的儀式について語ります。それは「贖罪の儀式」についてです。神と隣人とに対して犯してきた多くの罪を正しく見つめ、悔い、赦される、そのための儀式を一年に一度行うようにとの指示が、ここには記されています。ここから、儀礼の本質が、己の人生を俯瞰し、さらに、その人生を肯定したり、修正したりするものとして理解されていることを、読み取ることができます。

 過日、この3月に立教大学を巣立っていったばかりの卒業生の一人から、「卒業式も入社式もなく、何が終わって、何が始まったのか、うまく気持ちの整理ができないでいます」との言葉が届きました。似たような声は他の卒業生からも届きます。確かに、この春、コロナ禍の中で、多くの教育機関は卒業式を行えないまま、学生たちと別れ、入学式を行えないまま、新しい仲間を迎え入れ、始業式を行えないまま、新学期を始めることになりました。企業もまた、入社式を行えないまま、新入社員を迎え入れることになりました。「気持ちの整理ができない」という、この卒業生の言葉は、そんな社会の世相の狭間で、「わたし」という輪郭がぼやけ、実存の不安定さに怯える、ある意味でのSOSのように、わたしには聴こえました。

 「今までしてきたこと」や「現在の自分」を認識することは、人間にとって、とても大事なことです。しかし、日々流れていく日常の中で、自己の存在の意味や、廻りに居る人との絆やつながりを確認することはかなり難しい。だから、人は儀礼を通して、それらを認識してきたように想うのです。入学式は、今までしてきた苦労や頑張ってきた自己への労いに浸るとき、卒業式は、多くの人たちからの支えや励ましを振り返りながら感謝を噛みしめるとき、入社式は、己の成長やこの先の可能性を期待するとき・・・・・ 。卒業式や入学式だけでなく、成人式や結婚、葬送といった、わたしたちに身近な、様々な「儀礼」は、そのような自己承認や、社会における自己の位置確認の役割の一端をこれまで担ってきたように、改めて想わされます。

 先の卒業生たちには、「今の、このときが過ぎ去ったら、ちゃんと『卒業式』をしような」と約束しました。そんな日が一日も早く実現することを、切に、本気で、毎日祈り続けています。

2020年7月20日
2020.7.13

見よ、兄弟が共に座っている。
なんという恵み、なんという喜び。
(詩編 133編1節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 九州地方を中心に豪雨が続き、たくさんの人たちが困難を抱えています。その報道を目にするたびに、胸が痛み、またコロナ禍にあって、二重、三重の重荷を負うことになった苦しみに想いを巡らせています。少しでも被害が少なく、重荷が軽く済むようにと祈るばかりです。

 ふと何年も顔を合わせていない九州在住の友人が心配になり、手紙を出しました。手紙が着くとすぐに彼から電話がかかってきて、手紙への感謝と近況を語ってくれました。その後しばらく、仕事のことや家族のこと、思い出話など他愛もない言葉を交わし、最後に、
「東京は新型コロナ感染が止まらないとニュースで見たけど、状況はどうだ。お前や家族は大丈夫か。不便なことはないか。何か必要なことがあれば言ってこいよ。」
と彼の気遣いで久しぶりの会話を終えました。
 ずっと会う機会もなく、話をすることもなく過ごしてきたけれど、私たちに流れたその時間は、かつてのまま少しも色褪せることなく、昔の続きのような楽しさに満ちあふれていました。そして、私が心配して便りを出したのに、最後には気遣いを受け取ることになる、そんな彼の優しさ、思いやりもまったく変わっていませんでした。

 遠く離れていても、どれくらいの時間が経っても、かんたんに関係は褪せていかない、そこに交わされる想いがあれば、それは共にいるということ。人を想い、人に想われる喜びを知らされた出来事でした。

2020年7月13日
2020.7.9

九州全域・岐阜・長野地域での豪雨災害を覚えて
慈しみ深い神、慰めの主よ、
九州全域および岐阜・長野地域での豪雨災害を覚えて、
被災地、被災者への、あなたのみ助けを心から祈ります。

未だ、行方の判らないでいる人びとに救援・救助の手が差し伸べられますように

今も、避難生活を送りながら、これから先の生活に不安を感じている人びとや、
大切なものを失い、悲しみ打ち拉がれている人びとが
決して希望を見失うことがありませんように

被災者の救助活動、救援活動、医療活動をする人びとが、
多くの人の祈りによって支えられ、
その働きを全うすることができますように

この災害によって亡くなられた人びとに、
主のみもとにおける安らかな憩いが与えられますように。

そして、哀しみを抱えた人びとを独りにせずに、
互いに助け合う日常を新たに築き上げながら、
共に光の道へと歩み出すことができますように。

これらの祈りを、わたしたちの主イエス・キリストのみ名によってお願いいたします。
アーメン

2020年7月9日
2020.7.6

だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。
(テモテへの手紙Ⅱ 4章3~5節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

「キレイゴト」だっていいじゃない

 このコロナ禍にあって、正統的宗教への人々のまなざしが、意外にもあたたかいなと私は感じてきました。多くの場合、危機や災禍に乗じて、カルトや新興宗教が猛威を振るってくるものですが、今回は人を密に集められないせいか、静かな気がします。かえって、世界も日本も、特に立教の学生、教職員の皆さんも、キリスト教への信頼、敬意といったものが、今までになく大きくなっているように感じています。それは、損得勘定や利権とはまったく無関係のところから、評価されているような気がするのです。経済効果の有無にかかわらない(と見える)からかもしれません。でもそこに、人の心の優しさ、「良心」を見いだすことができるので、宗教者の一人として穏やかで確かな気持ちになっています。
 しかし、あえてシニカルに見れば、それはボクの周りで聞こえている声、拾える情報だけのことなのかも、と思います。知らないところで何と言われているか、裏ではどんなに酷い言葉で揶揄されているか底知れない、とも思います。インターネットで何か情報検索をすると、人気順、アクセス数の多い順に、結果が並びます。さらに自分がどこにアクセスしたのか、何に興味を持っているのか、その傾向を検索システムは読み取り、その人の欲する情報を取りやすくします。だから私も、自分の気に入る内容の情報しか手に入れられていないのかもしれません。
 冒頭に掲げた聖パウロの言う、「自分に都合の良いことを聞こうと」して、「だれも健全な教えを聞こうとしない時」とは、現代にも当てはまる気がします。そのような状況に対抗するために、第一に「身を慎み、苦しみを耐え忍ぶこと」、第二に「福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たすこと」を勧めています。「身を慎み、苦しみに耐え忍ぶこと」は、すでに「Stay Home」や「外出自粛」の呼びかけ、そして「オンライン授業」、「入構制限」といった対策で、わたしたちは経験中でしょう。第二の「福音宣教者の仕事」とは、わたしたち皆への言葉として解釈させていただければ、「良い知らせ、良い情報を伝えてゆく営み」です。つまり、「良心」とか「善」とか、「美しいもの、こと」に信頼を寄せて生きること、それを追い求め、探し求めて生きることです。「健全な教え」は、「キレイゴト」に思えてしまうかもしれないけれども、それでも「キレイゴト」が人間の「良心」から出たものであるならば、人への思いやりであるならば、「美しいこと」、「善いこと」であるならば、それを追い求め続けてもいいじゃないかと思います。今を耐え忍んで、明日の夢を描き続けてまいりましょう、世界の人々と共に。あなたの「良心」と共に。

2020年7月6日
2020.6.29

キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
(エフェソの信徒への手紙 4章16節)
立教大学チャプレン 金 大原

 とめどなく動いていた世界がしばらく停まっている。国と国を、地域と地域を結ぶ架け橋であった飛行機はほとんど地上に所在無げに並んでいるだけで、いつも雑踏していた空港は物静かである。日本は緊急事態宣言が解除され、比較的自由に過ごしているが、世界中にはまだロックダウンの状況下にある人々が多い。このような時こそ、当面の問題に真剣に取り組むとともに、今までの自分を深く省察しなければならない。心の内側を省み、人生で最も重要なことを再確認し、本来の自分を取り戻す良い機会なのだ。
 さて、最近ネットで特別な合唱を聞いた。社会的距離の確保が日常になっている中で、日本聖公会中部教区の教役者たちによって作られた「バーチャル・クワイア」の映像だった。それぞれ声色が違い、発声法も違っていたが、不思議に思うほどきれいにまとまっていた。この状況を皆で乗り越えよう、という切なる願いがこもっているようで、聞いているうちに、胸が熱くなっていた。
 それぞれの声が合わせられて美しいハーモニーを響かせる映像を見て、違う場所にいる人たちをいろんな形でつないでくれる技術に感謝した。インターネット空間では既に脱領土化が進んでいたのだ。どこにいても、国が違っても、肌の色が違っても、わたしたちは互いを呼び、応えている。新型コロナウイルス感染症によってつくられた予想外の風景である。
 わたしたち皆のいのちは互いにつながっているという事実、隣の人が健康でなければ自分も健康になれないということを切実に感じている。社会的距離は身体的距離であるだけで、決して心理的距離になってはならない理由なのだ。互いのいのちを守るため距離を確保しているが、もっと頻繁に連絡をし、親密感を一層高めなければならない。

2020年6月29日
2020.6.22

ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
(マタイによる福音書 10章8節b)
立教学院チャプレン長 五十嵐 正司

 人の生き方について、聖書にはさまざまな言葉が記されていますが上記の聖句もその一つです。イエスの弟子たちがイエスの愛を人々に伝えようと派遣される時に、与えられた言葉です。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言われます。では、「ただで受けたもの」とは何をさすのか。神から与えられた命、時間、神の愛、人々からの愛、人間関係、生まれながらに備えられた特性などが思い浮かびます。その神から受けたものは、実は、全体の益となるために与えられた賜物なのだ、と聖パウロはコリントの信徒への手紙一12章7節以降に記しています。「一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって病気をいやす力」。祝福された生き方とは「ただで受けた賜物を、ただで与える」生き方なのだとパウロも言われます。
 この聖句を見ている時に、自分の力を精一杯に用いて人を大切にした人を思い起こしました。元国連難民高等弁務官であった緒方貞子さんです。緒方さんは難民として苦悩の中に生きる人たちに寄り添い、支える働きをされましたが、その原動力は、難民の苦しみに接する度に湧き上がった怒りと悲しみでした、と言われました。神によって与えられた尊い命が権力者により汚され、傷つけられ、また多くの人々から無視されている。それを目の当たりにして、怒りと悲しみが湧き上がったのでしょう。緒方さんが10年間の働きを振り返り、国連において演説した言葉の最後は「誰よりも難民に尊厳を!Respect refugees」でした。また2001年に放映されたNHKインタビュ—の中で「私たちはそんなに平和な、良い世界に住んでるんじゃないんです。20世紀が終わろうとしているのに。」と言われました。
 イエスの時代も今もそんなに良い世界ではない。そこに生きる私たちに、イエスは与えられた賜物を用いて、Respect neihborsと声をかけているのではないでしょうか。

2020年6月22日
2020.6.15

バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。
(使徒言行録 11章23節)
立教大学チャプレン 中川 英樹

「障りとせずに」

 キリストに結ばれた教会は、毎年6月11日を「使徒聖バルナバ」を記念する日として守ります。聖バルナバは、1世紀、アンティオキア(現シリア)の教会共同体の発展に尽力した使徒であると伝えられてきました。アンティオキアの教会は、エルサレムで迫害され、逃げ延びてきた、数人のキリスト者たちによる、異邦人たちへの宣教によって形成された教会です。使徒言行録には、このアンティオキアの教会に、シメオン、ルキオ、マナエンという指導者たちが居たことが記録されています。シメオンは「ニゲル」と呼ばれていました。ニゲルとは「黒い」を意味する言葉です。ルキオはキレネ出身の異邦人でした。マナエンは権力者と共に育てられました。また、この共同体には、教会の迫害者から回心したパウロも居ました。この教会共同体では、どうやら、肌の色も、出自も、習俗も、それまでの宗教的な信条も思想も、そして過去すらも、何も「障り」となることはなかったようです。ここに、この共同体が周囲の人びとから信頼された理由、そして、一つの豊かなコミュニティの現実があるようにおもうのです。

 今、世界の各地で、人種差別への抗議運動が広がりつつあります。その運動は、人種差別そのものへの抗議であると同時に、歴史の中で、自らのうちに無自覚・無批判的に刷り込まれてきた、他者に対する「負のステレオタイプ」を抜け出て、神の似姿(Imitatio)として祝福された自己と他者を取り戻す闘いのようにも映ります。肌や瞳や髪の色、出自も、過去も、その生い立ちも思想も、何ら「障り」になることのない、社会正義の実現を求める、尊厳に満ちた運動として、多くの人たちの連帯が起こり始めています。

 アンティオキアの教会共同体に生きた、イエスの仲間たちが、歴史上初めて、「クリスチャン」と呼ばれるようになりました。エルサレムの教会から派遣された聖バルナバは、そうした、障りのない教会の姿を見て、「神の恵みが与えられ」ていると云って喜び、「固い決意をもって主から離れることのないように」と勧め、その働きを励ましました。その使徒聖バルナバを記念する、この時節。遠く、アンティオキアの教会の成り立ちの歴史に想いを馳せながら、そして今、何も「障り」にならずに、生きることを願う、多くの人びとの立ち上がりに連帯しつつ、「固い決意をもって」、キリスト・イエスから離れることなく、その生き方を模倣(Imitatio)する、わたしたちで在りたいと、心から願います。

2020年6月15日
2020.6.8

「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。」
(出エジプト記 3章14節/聖書協会共同訳)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

 新年度が始まり、オンライン授業や会議など、いろいろなミーティングで、モニターを通してですが、初めてお会いする人とご一緒する機会が増えました。そのような時に自己紹介をすることがあります。
 自己紹介を求められたときにはまず、自分の所属する職場や学校、為している活動や働き、自分の趣味や関心事などを語ります。そこで語られることの多くは、自分の表層的なもので、「自分のカタチ」を知ってもらおうとする試みです。それはそれで人と人が知り合っていく入り口として必要なことですが、自己のほんの一部しか伝えられません。
 文字通り自己を紹介する(自分を知ってもらう)のであれば、心のうちにある想いや在りようなど「自分のスガタ」を伝えることが必要です。私たちは知り合った人と心を通わせるようになっていく過程で、時間をかけて自己紹介をしていると言えるのかもしれません。

 旧約聖書の出エジプト記に登場する有名な人物に、モーセという人がいます。モーセはある時、神さまに名前を問います。すると神さまは「私はいる、という者である」(I am who I am)とご自身の名をモーセに紹介するのです。
 なんとも不思議で斬新な、でも、まっすぐに「自分のスガタ」を語っている素敵な自己紹介なのでしょう。「私はあなたにとって、いつでも、どこでも、『いる』という存在だ」、この神さまの自己紹介は、モーセにとって名前を知るよりももっと深く、神さまを知ったものであったことでしょう。

 直接会ったり、同じ空間で一緒に何かをしたりすることが難しい状況に生きる私たちですが、少しずつでも、時間をかけてでも、お互いの「スガタ」を伝え合っていく、そのような自己紹介を深めていかれたら、とても素敵な出会いを得ていくことができると想うのです。

2020年6月8日
2020.6.1

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
(ヨハネによる福音書 3章16節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

「命に嫌われている」、いや、本当は・・・

 オンライン授業もテレワークも、学生教職員の皆さんの理解と努力によって、走り続けていられることに、感謝と感動の日々を重ねています。得意不得意を超えて、ここまで皆が「できる」とは思いもよらなかったでしょう。そして、今後への可能性も広がっているでしょう。もちろん、この波に心が追いつかないところも、私自身も大いにあります。これが「新しい日常」に、「あたりまえ」になることには、抵抗感もあります。だからこそ、時世に折り合いをつけながら、本当に大切なことは何かを問い続けたいと思います。
 オンラインによって、講師や出席者の顔を正面から見ることが多くなったと気がつきました。カメラ目線までは求めなくとも、これほど集中して真正面から相手の顔を見ている時間は、対面時の授業や会議よりも確実に多い気がします。でもこれは、程よい距離が確保されているからでしょう。これも「社会的距離」と言えるかもしれません。自分で制御できる安全な距離によって、冷静かつ正直に、必要な情報を提供、取得、共有することができているのです。まだ馴れていない時期だからかもしれませんが、そこには思いやりの優しい、清い心の風も感じます。この今の感覚を、忘れないでいたいと思います。
 ある学生から、『命に嫌われている』という歌を教わりました(作詞・作曲カンザキイオリ)。生きていることへの不安、日常のなじめなさの中で、身動きが取れない常態の鬱積した思いが、「命に嫌われている」という言葉に集約された、現代人の心を代弁したような歌です。「死にたいなんて言うなよ、諦めないで生きろよ」という声も、自分は死んでもよいけれど、周りが死んだら悲しくて、それが嫌だから、悲嘆に向き合いたくないだけの、「エゴ」なのだと歌いながら、そんな「正しい」命の価値観に縛られている自分自身に対しても、違和感を吐露します。そこに歌われている「命」は、「日常」、「あたりまえ」への問いとも思えます。そこになじめない、そこに馴れない、正直な思いです。この歌を何度も聞きながら、「世を愛された」神が、「一人も滅びないで、永遠の命を得る」ようにと願った言葉が響いてきました。本当は誰も滅びてほしくない。誰も失いたくない、誰とも別れたくない。けれども「いつかは死んでゆく」、その「命」の限界への衝撃に、聖書は「永遠の」という言葉を希望として付けてくれたのかもしれない、とも。「永遠」は、「不死身」「不死」ではないけれど、その限界を超えた希望です。そして、自らを「命である」と言われた主イエス・キリストの存在は、「命」はキミを嫌っていない、という全人類への宣言です。キミもキミ自身の「命」とも折り合いをつけながら、「命」を抱きしめ合ってゆこうよ、という愛の言葉です。今は、それを正直な気持ちとして皆に伝えられる、皆と感じ合える歴史的瞬間のような気がします。この今の気持ちも、忘れないでいたいと思います。

2020年6月1日
2020.5.25

癒しと回復のための祈り
立教大学チャプレン 金 大原

慈悲深い神よ、
立ち込めた霧のように
私たちの中に不安が染み渡っています。

新型コロナウイルスの拡大によって
日常の平和は崩れました。
隣人を愛しなさいと教えられたのに
私たちは警戒心をもって人に接しています。
見知らぬ人はもちろん
友人との接触をも避けなければならない状況にあります。

船の上で強い逆風にあってもまれている弟子たちに
「わたしだ。恐れることはない」と言われたその声を
私たちにも聞かせてください。
そして今の荒れた波風を静めてください。

主よ、
尊い命を失われた人々に永遠の安らぎを与え、
感染症に罹患し恐れている人々と、
命を守るために日夜奮闘する医療従事者の人々を守り、
回復の力、成し遂げる力を与えてください。

目に見えないウイルスは
人間の高慢と偏見を見直すことと
生き方の変化を求めています。
私たちに正しい道を示してください。
社会秩序や安全を脅かす病と恐怖を追い払い
喜びを分かち合い平和を楽しむ日常を
取り戻すことができますように。
アーメン

2020年5月25日
2020.5.18

あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。
(申命記 31章6節c)
立教学院チャプレン長 五十嵐 正司

 この言葉は、民族の存続にかかわる困難を目の前にした、不安におちいるイスラエルの人々に語りかけられた言葉です。今から3000年ほど前の出来事です。しかし、3000年後の今も、さまざまな困難を目の前にして私たちは不安を覚えます。
 新型コロナウイルス感染症蔓延により、立教大学の入学式は中止となり、春学期の開始は遅れて4月30日となりました。都市封鎖等の事態に備えて、学生も教職員も予想しなかったonline の授業となりました。学生は大学の敷地内に入ることができず、教職員も基本は在宅勤務となっています。
 この状況下にある学生の大学生活への期待と不安。それに応えようと質の高い教育をonline 授業により行おうと日夜、努力する教職員。コロナ禍により経済的に苦しい立場に置かれる学生をサポートしようと準備する教職員。就活の学生にきめ細かく支援しようと努力するキャリアセンター、各部の教職員。学生にはこのように多くの“隣る人”がいる。
 学生、教職員のこの姿に触れて、「あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」との聖書の言葉が身近に感じられます。

2020年5月18日
2020.5.11

今だからこそ、知っておいて欲しいこと
(チャペルニュース2020年4・5月号 巻頭言)
立教大学チャプレン 中川 英樹

 この春、立教大学は、3年次編入学者を含む学部生4,542名、大学院博士課程前期課程427名、後期課程43名、計5,012名を、新しい本学の構成員として迎え入れることができました。しかし、新型コロナウイルス感染症拡大への懸念から、新入学生を迎えるための入学式、ガイダンスなどの入学関連の諸行事は中止。対面での授業も未だ開始できないでいます。またオーバーシュート、医療崩壊の危機回避に伴う、外出自粛要請なども重なり、いつもなら、この時期、新歓活動などで賑々しいキャンパスですが今はとても静かです。それでも、この静けさの中で、わたしたちの新しい年度は、神の祝福を受けて、始まりました。ようこそ立教大学へ。皆さんの入学を心から歓迎します。

 現代に生きる誰もが直面したことのない、この大混乱の最中、恐れと怯えだけがわたしたちを取り囲んでいます。しかし、その恐れと怯えは、一方で、わたしたち一人ひとりに、また、この世界全体に、大切な一つのことを伝えています。それは「想い遣り/Compassion」についてです。この「Compassion」という言葉の意味を、語源にあたって、調べていくと、それは、ラテン語で「共に」という意味の「Com」と、「苦しみ」を意味する「passio」という語が、合わさってできた言葉だということが判ります。つまり、「Compassion」とは、「苦しみを共にする」というのが、そもそもの意味ということになります。良いときだけではなく、たとえ、最悪なことの中にあっても、決して、互いに離れることなく、共に傍らに寄り添い続けること。その苦難が通り過ぎるまで、共に、その苦しみに耐え抜くこと。それが、「Compassion/想い遣り」の本質でもあります。「想い遣り」は、漢字で書くと、「想いを遣わす」、そう書きます。それだけで、もう十分に、美しいと想うのですが、そこに、「苦しみを共にする」ということをも重ねて想うとき、「想い遣り」という耳慣れた、この言葉が、今の、このようなときだからこそ、ほんとうに、尊く、大切な意味を包含している、深く重い言葉だということに心を打たれます。

 「想い遣り」とは、「優しさ」です。相手を心から想うことです。相手の存在を互いに心から慈しみ合うこと、尊敬し合うこと、感謝し合うこと、それが想い遣りです。今、世界の至るところで、この想い遣りが生まれています。互いに想い遣ることだけが、今の、わたしたちの内なる恐れと怯えを鎮めていくのです。そして、この想い遣りへの招きは、そのまま、立教大学で、これからを学び過ごす皆さんへの、大切なガイダンス、オリエンテーションとなります。なぜなら、立教大学は、「Compassion/想い遣り」を生き抜いた、イエスという人の、その生き方を礎とする、「イエス主義」の大学だからです。今、皆さんは、自らと、多くの人びとの疲弊と悲哀の中で、この想い遣りの必要を実践的に学びつつ、立教という学び舎での新しい学びの備えをしているのです。

 立教大学は今年、創立から146年目を迎えます。この間、イエス主義大学としての立教大学が、その教育的営為の礎としてきた、イエスの生き方とは、苦しみを抱えた人と共に「慰め」を探し、希望を失った人と共に「光」を探し、痛みを憶える人と共に、その傷が「癒やされる」ことを待ち、人が赦せなくなってしまった人と共に「赦し」を祈り、困難を背負う人と共に、その「重荷を下ろせる場所」を訊ね、涙を堪えるコトができない人と共に「涙」が収まるのを待ち、怒りを抑えられない人と共に「声を荒げ」たりすることです。イエスの生き方とは、まさに「想い遣り」に満ちた生き方なのです。それが、立教が、その教育理念としていること、146年間、この立教の地下水脈として流れ続けているものです。立教大学は、そうしたイエスの想い遣りの生き方を、様々な学びの仕組みの中に落とし込みながら、単なるGlobalLeaderではなく、互いを輝かし合うことのできる、イエスがそうであったように、自らを、他者との共なるSharedLeaderへと成長させることのできる人の育成を自校の教育的実践の課題としてきました。

 イエスは、十字架上での死の後に、「救い主/キリスト」と、呼ばれるようになりましたが、イエスが、「メシア/救い主」と呼ばれたのは、彼に「力」があったからでも、周辺の大国のあらゆる圧政を打ち倒したからでも、降りかかる困難、災禍をすべて取り払ったからでもありません。イエスが、「メシア/救い主」と呼ばれたのは、いつも共に居てくれて、一人ひとりが抱える困難、重荷を共に担ってくれたから。一人ひとりを、そのいのちを大切にし、その存在を輝かせてくれたからです。では何が、イエスをして、「一人ひとりを大切にする」という生き方に駆り立てたのか。その答えは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネによる福音書3:16)という聖書の一語にあります。神が、この世界を創り、すべての「いのち」を育み、その「いのち」をかけがえのないものとして、何の分け隔てもなく、この上なく愛されたから。それが、イエスがすべてのいのち、その存在を大切に生きた唯一つの理由です。

 「すべてのいのち、その存在が大切にされる」こと。それは、キリスト教だけに限らず、すべてに共通する普遍的な価値です。すべてに共通する普遍的な価値であるがゆえに、皆さんにも無関係ではないものとなります。昨今、世界規模の哀しみの蔓延とともに、世界の、社会全体のあららこちらで、結び目が解け、つながりが綻び、その中で、多くの人たちのいのちが傷ついています。その癒やしと再生のために、何が必要なのだろう。何ができるのだろう。何を為てはいけないのだろう。そのことが今、わたしたち一人ひとりに、とても強く問われています。立教の構成員になるということ、それは、「すべてのいのち、すべての存在が大切にされる」という、この普遍的な価値が実現していくために、これらの問いへの応えを探求し続ける、そのための知的な協働者になっていくということです。ここでの学びのすべてを、利己的に享受するのではなく、喜んで、惜しみなく、気前よく、手放して、その実現のために献げる人になることです。「学ぶ」ということは、自己のためではなく、社会に奉仕するためのものであるということを、Liberal(惜しみなく/気前よく)Arts Collegeを自認する、立教に学ぶ者なら、憶えておく必要があります。あなたが学ぶのは、「他者のため」、「すべてのいのち、その存在が大切にされる」ためです。

 皆さんのこれからの立教大学での日々が、いつも、互いのいのちを想い合い、そのいのちが大切にされていくために、寄り添い合う、想い遣りに満ち溢れた、そのような日々と、歩みになりますようにと、祈ります。

2020年5月11日
2020.5.4

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
(コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章18節)
立教大学チャプレン 斎藤 徹

「目に見えない色彩」

 わたしたちは、まったく経験したことのない状況で、新年度を迎えました。すべてのことの先が見えないこの状況は、地図もなく、GPSもなく、ナビゲーターもいない中で、初めての地を歩いて道に迷っているようです。どこに立っているのか、どこに向かっているのか、何をすればよいのか、それが明確にならない不安は、多かれ少なかれ今皆が抱えているものです。
 たくさんの不安や恐れを抱え、外出自粛などが求められ、多くの不自由を負う日々ですが、皆が同時に悩んで、お互いのことを思い合っていることを深く感じます。この状況の中で、「あなたは元気で過ごしている?」、「健康に気をつけて過ごしてくださいね」、「時々連絡してくださいね」、そういった思いやりの言葉がたくさん交わされています。その思いやりに触れると、こわばった緊張がほぐれます。
 「わたしはあなたを想っています」と差し出された心が花となって、今わたしたちの周りにたくさん咲いているのではないでしょうか。それは感じるもので、目には見えないかもしれません。だけどその優しさとあたたかさは、枯れることなく、しぼむことなくわたしたちの立ち姿に彩りを添えているのです。不安はあるし、恐れもある。それでもわたしたちの日々はモノクロになってしまうことなく、目には見えない色彩に包まれているのです。

2020年5月4日
2020.4.27

わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
(ローマの信徒への手紙 8章38~39節)
立教大学チャプレン 宮﨑 光

つながれ、わたしたち

 「さよなら」も言えずに送った3月—卒業の時、顔も合わせられずに迎えた4月—入学の時を経て、いよいよ今週から新年度の授業開始です。とはいえ、春学期はすべて「オンライン授業」。学生も教職員も、皆、ひとりひとり、パーソナルな画面と向き合います。文字、音声、映像、数値などで表される膨大な情報の中から、自分に今、必要なことは何かを、(親切丁寧な手ほどきが幾らあったとしても)考え、選び取ってゆく「主体性」が、これまで以上に求められることになるでしょう。でも、何より今の状況は、誰も経験したことがない、皆1年生のようなもの。決してあせることはありません。そしてまた、今や世界中が同じ苦しみ、怖れ、不安、戸惑いを抱えて、日々を過ごしているのです。
 ローマ教皇フランシスコは、「わたしたちは皆、(激しい突風に襲われた)同じ船に乗り合わせているということに気づきました。皆、弱く混乱し、しかし同時に、一人ひとりが大切でかけがえのない存在であり、皆が一つになるよう招かれ、互いの慰めを必要としています。この船の上に、わたしたちは皆一緒にいるのです」と語られました(3月27日)。
 また、ドイツのメルケル首相は、自分が「感染しないため」だけではなく、誰にも「感染させない」ために、「思いやりからお互いに距離を取るのです」と呼びかけました(3月18日)。
 随筆家の若松英輔氏は、「ひとりであると/思ってはならない/集うことなく/つながれ/希望を/見出せないなら/不安と苦しみによって/つながれ」という言葉を発信しました(3月8日Twitter)。
 不安と苦しみに取り囲まれているこの時に、会いたい人に直ぐ会いたいけれど、会いたいからこそ今は会わない、という「思いやり」からの辛抱、勇気、決断をもって、「集うことなく、つながれ」ることを、私はこれらの言葉から確信して、この新学期に臨みます。そして、皆さんと共に、冒頭の聖パウロの言葉を噛みしめながら生きてみたいと思っています。「神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」と。この言葉は、立教大学の今の支えとなるでしょう。大丈夫です。思いやりのあるキャンパスは、もう、皆さんひとりひとりが作り始めているからです。集うことなく、つながれ、わたしたち!

2020年4月27日
2020.4.20

同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、
めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
(フィリピの信徒への手紙 2章2、4~5節)
立教大学チャプレン 金 大原

 新型コロナウイルス感染症の拡大により、世界中の人々が大打撃を受けています。これはただウイルスがもたらした危機であるだけではありません。地球上に人類よりはるか昔から存在していたウイルスがことさらに問題を起こしたとは言えないのです。この危機は人類が構築した生活様式からはじまったと考えられます。新しい文明に向かう苦しみかもしれないということです。
 予防法を捜し、また感染経路を追跡する過程を見て、古い真実についてあらためて考えさせられました。それは世界を構成する巨大なつながりのことです。私たちはお互いに絡み合っていて、だれも自分ひとりで存在することはできず、自分の病は自分だけの責任ではないという事実を知ることができたのです。この経験をもって弱肉強食や適者生存という社会システムを根本から見直すことができればと思うわけです。
 危機は希望を産みます。皆が自分のためではなく他人への配慮として自粛し距離を置き、感染拡大のリスクを減らすために、商工業者は一時損失を出しても閉店や在宅勤務を実施し、宗教団体は何千年間も守ってきた礼拝を中止し、何より自分たちの感染の危険を冒しながら診療をつづけ、収束に向けて尽力する医療従事者がいます。危機の中で新しい文明の可能性がうかがえるのです。
 「イエスと同じ思いを持つこと」という使徒パウロの勧めに耳を傾けるべきです。イエスの思いは、神と人々に開かれた思いであって、自分を失うのではなく、本来の自分を取り戻すようにしてくれます。自分だけではなく、自分を支えている巨大なつながりを見させるからです。
 自由に集まることができず、しばらくは残念で無力な状態が続くでしょう。キリスト・イエスの祝福がこの時代に注がれ、危機を乗り越え、いのちの時代を拓いていけるようにと祈ります。

2020年4月20日
2020.4.13

新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。
(マタイによる福音書 9章17節)
立教学院チャプレン長 五十嵐 正司

 新しいぶどう酒とは、収穫したぶどうが潰されてできたぶどうジュースです。これが動物の皮で造られた革袋に入れられると発酵が始まり、二酸化炭素が発生し、数カ月かけてアルコールが造りだされます。新しい弾力のある革袋は発酵するぶどう酒に耐えられますが、古い革袋は耐えられません。破裂します。このことは2000年前、イエスがガリラヤ地方に住んでいた頃、誰にでも知られていることだったのでしょう。
 イエスはこのたとえを用いて、自分が人々に伝えるメッセージは今までの枠組みの中では捉えきれない新しいメッセージであると言われます。
 私たちは今までに生きてきた文化の中で様々に影響を受けています。話す言葉も、挨拶の仕方も、立ち居振る舞いも、考え方、物事の判断基準なども、その影響は甚大です。ですから自分の文化とは異なる文化、価値観に出会う時、それは驚きであり戸惑いであり、時には拒絶感さえ持つかもしれません。しかし、これまでの自分、文化に縛られずに柔らかな心で異文化に接するとき、豊かにされていく自分に気付くことがあるのではないでしょうか。
 イエスは「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネによる福音書8章32節)と言われ、真理探究を私たちに勧めています。
 どうか新しい革袋である皆さん、新しいぶどう酒を受け入れて、発酵させ、良いぶどう酒を造ってください。新型コロナウイルス感染症により通常ではない大学生活をせねばならない時だからこそ、特別な味わいのぶどう酒を造るべく、たくさんの興味と関心を持って大学生活のすべてを用いて学び、楽しんでください。皆さんに神の祝福を祈ります。

2020年4月13日

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